昭和52年の野村監督の解任劇が、なぜ「騒動」といわれるようになったのか。それは野村の〝爆弾発言〟があったからだ。
南海・川勝オーナーの解任示唆を受け、球団は9月27日、大阪・中津の東洋ホテルに監督を呼んで「監督解任と自由契約選手」を通告しようとした。ところが野村は「体調不良」を理由にホテルに来なかった。しかたなく球団は翌28日、電話で解任を通告した。
野村は大阪・豊中市刀根山の自宅に籠もった。記者たちの訪問や質問にも一切答えない。自宅には江夏や柏原、高畠ら〝野村一家〟が入っていく。何も語ろうとしない〝沈黙〟の数日間が過ぎた。その間、球団は10月1日に広瀬の監督就任を発表した。
10月5日、ついに〝沈黙〟が破れた。大阪・北区のロイヤルホテルで解任後初の記者会見を開いたのである。ホテルの「桐の間」には100人近い報道陣が集まった。何を野村は語るのか。その第一声が-。
「この1週間、いろいろ私なりに考えてまいりましたが、私は鶴岡元老にぶっ飛ばされたと思っております。スポーツの世界に政治があるとは思ってもみませんでした。鶴岡政権の圧力の前に私は吹っ飛んだわけでございます」
衝撃的な発言だった。たしかにOBの第一人者である鶴岡(野球評論家)は南海だけでなく、球界にも大きな影響力を持っていた。ただ、野村にとっては一から育ててくれた〝恩人〟でもある。その人を名指しで非難したのだから、騒動にならないわけがなかった。当然、鶴岡は激怒した。
「とんでもない話や! ワシが何で野村の足を引っ張らにゃあならんのか。ほんまにアホらしい。迷惑千万や」
鶴岡からの抗議を受けた球団は翌6日、野村に対して「事実無根で名誉を傷つけた」とし、鶴岡へ謝罪するよう命じ、「訓告処分」を言い渡した。だが、野村は反発した。
「訓告がどんなものかよう分からん。確かに鶴岡さんは直接には動いていないかもしれん。けれどバックやその他が動いている。それは想像やなく事実関係を調べた上でのこと。裏付けも取ってある。謝罪するつもりはない」
突然、クローズアップされた野村と鶴岡との関係。「確執」とは? マスコミは大いに騒いだ。(敬称略)