監督一人の「解任」だけで、ことは収まらなかった。翌9月26日に江夏が「野村監督のいないチームに未練はない」と引退を宣言した。
「阪神を追い出されたオレを拾ってくれたのは南海。だから、人間として不義理はしたくないし、恩を仇(あだ)で返すようなことはできない。けれど、一度ダメと烙印(らくいん)の押されたオレをここまで働けるようにしてくれたのは野村監督や。その監督が辞める以上、オレもとどまるわけにはいかんやろ」
女性問題が原因での解任はおかしい―と、球団に反旗を翻した選手やコーチは他にもいた。彼らは「野村一家」と呼ばれた。当時、ヘッドコーチを務めていたブレイザーもその一人。
「野村が現役兼監督としてやっている間はずっと残るつもりでいた。しかし、彼が辞める以上、日本にいる必要はない」と追随した。
この「野村騒動」で南海を去ったのは5人。ブレイザーコーチは翌53年から古葉広島のヘッドコーチに就任。高畠コーチは野村と共にロッテへ移籍。江夏は広島へトレードとなった。そしてもう一人、ようやく打撃力がつき「南海のホープ」と期待されていた柏原も日本ハムへ移籍した。
筆者は不思議だった。当時の柏原は入団7年目の25歳。2年連続で2桁ホーマーを放ちようやく「一塁」の定位置を取ったばかり。まだ球団に反旗を翻せるほどの選手ではなかった。時代が「令和」になって柏原が真相を明かした。
「実はあのころ、ボクはノムさんの自宅(豊中市刀根山のマンション)に下宿していたんだよ。成績もイマイチで監督から『ウチにこい』と言われ、一念発起して監督の家に引っ越したんだ」
――〝内弟子〟に入ったってこと
「そう、毎晩、監督と打撃の話をしてスイングの矯正や。『きょうの打席の1球目から振り返ってみろ』『なんで、あのときあのタマに手を出した。理由を言ってみろ』ってね。厳しかった」
――毎日続けたの
「途中でイヤになってある日、酒を飲んで夜中に帰ったら、監督は寝ずに待っとった。なにも怒らずに『さぁ、やるぜ』。心底感謝した。沙知代さんにもお世話になったし…。そんなオレが残れるか? 引退しようと思っていた」
柏原は野村に説得され日本ハムで“現役”を続けたのである。(敬称略)