《昭和40年、レストランでボーイのアルバイトをしながらマンガを描き、デビューの機会をうかがっていた。編集者の紹介で手塚治虫と会う約束を取り付けるも、本人不在で会えなかった》
手塚先生に会えず、がっかりして帰宅すると、弟の同級生が遊びに来ていた。その同級生は日頃から石森(のちの石ノ森)章太郎先生にマンガを見てもらっているとのことで、「一緒に行かないか」と誘われました。実はその前夜、夢を見ていたんです。(手塚の)虫プロに行くと、大きな庭にある小屋の中から、なぜか石森先生が「こっちへおいで」と手招きしているという夢でした。その場面を思い出して後日、石森先生に会いに行きました。和服を着た石森先生は落語家のようで、見ていただいた絵をほめてもらったことが自信になりました。
《石森のアシスタントが作業する仕事場に足を運ぶうち、「手伝ってくれないか?」と誘われるようになる。前任のアシスタントがやめ、人手が足りなかったのだ》
レストランでのアルバイトをやめて、アシスタントになりました。給料は減りましたが、マンガの勉強をできることが楽しかった。ただ、忙しかったですね。石森先生は多くの連載を抱えているから、原稿ができるのはいつも締め切りギリギリになる。8畳ほどの部屋にいる先生と4人のアシスタントを、多いときで13人の編集者が囲んでいた。締め切り間際の殺気が刺さってくるようでした。
先生は手が速いから、ポンポンと畳の上に原稿を投げ出す。それをアシスタントが拾って、背景などを描いていくんです。編集者は一刻も早く、自分のところの原稿を持ち帰りたいから、ヨソの連載原稿を取ると、「それはウチのじゃない」とでもいうようににらまれる。もう針のむしろ状態ですよ。編集者はふだんでも4、5人が待ち構えていて、午前中から食事も取らず、日付が変わるくらいまで描いていましたね。月に1度休めればいいほうで、労働基準法なんて関係なしでした。
アシスタントを始めて3カ月くらいのとき、私以外のアシスタント3人が反乱を起こしたんです。「こんなひどいところはない、やめる」と。私は待遇に不満はなく、「ここで勉強したい」と拒否して残りました。翌日、先生が来てまわりを見渡し、「他の連中はどうした」と聞くので、やめたことを伝えると、顔色一つ変えずに、「いらない机をかたづけろ」と指示されました。自分ひとりでも描けるという自信があったのでしょう。次のアシスタントが来るまで1カ月半くらい、向かい合って過ごしました。先生のもとには2年ほどいました。
《42年に「目明しポリ吉」(講談社「ぼくら」)でデビューする。江戸一番の岡っ引きになることを夢見る少年が主人公のギャグマンガだ》
もともとギャグには興味なかった。当初はアシスタントをしながら、描きためたストーリーマンガを出版社に持ち込もうと思っていたのですが、半年で4、5ページ描くのがやっと。でもギャグマンガならページ数は少ないうえ、背景も楽で簡単。石森先生もストーリーものとギャグでは、仕上げるまでの時間が明らかに違っていた。ギャグマンガは簡単でいいなあと思って、描きはじめました。(聞き手 伊藤洋一)