話の肖像画

マンガ家・永井豪(3)早とちりの決心でマンガの道

永井豪氏(酒巻俊介撮影)
永井豪氏(酒巻俊介撮影)

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《小学6年生のときに、父の芳雄さんが病気のため亡くなる》

子供の頃はひ弱だったが、父が亡くなってから、弱い人間じゃダメだと鍛えるようになった。それで中学のときは柔道部に入ったんですが、指導者が乱暴でね。よく畳にたたきつけられ、1年でやめてしまった。そのあとは放課後、グラウンドの鉄棒にぶら下がっていました。毎日やってると仲間も増えてきて2、3時間ぶら下がってましたよ。都立板橋高校に入学すると器械体操部に入り、副部長まで務めた。当時、大車輪くらいはできてましたね。

《高校卒業時に文系学部の大学をいくつか受験するが失敗。予備校に通うも身が入らず、体調を崩す。それが転機になる》

5人兄弟の長兄は働いていましたが、父の死去で家計に余裕がなくなり、5つ上、4つ上の兄は大学に行くことができなくなった。それでも兄たちからは「費用は面倒みてやるから、お前は大学に行け」と言われていた。勉強は好きじゃないけどなぁ、と思いながら何校か受けたが、やっぱり受からない。それで予備校に通うことになりました。

当時は大塚(東京都豊島区)に住んでいて、早稲田(新宿区)にある予備校まで、約3キロを都電で通っていました。時々はランニングでね。高校時代、器械体操部だった余韻があったんでしょう。でも勉強はというと、予備校で使用する教科書はマンガの描き込みだらけ。どこまで授業が進行したかは、落書きのマンガで分かったのですが、中身はさっぱりで…。

夏休み前かな、下痢が1カ月続いたことがあった。2番目の兄に相談すると、「同じ症状で亡くなった知り合いがいる、大腸がんだ」なんて言うんです。病院に行って検査を受けても、結果が分かるのは数日後。その間、「人間、いつ死ぬか分からない」ともんもんとしていました。そう考えたとき、「生きていた証拠を残して、自分がいなくなったあとも、いろんな人に思い出してもらいたい。駄作でも何でも、こんなやつがいたんだと思い出してもらえたら、それが自分の存在証明になる」と考え、生き残ったら好きなマンガをやろうと決心したんです。ところが検査の結果は腸カタルで、「1週間分の薬出しておきます」。2日くらいで治っちゃった。でも決心したからには、予備校をやめて、マンガを描くことにしました。

《雑誌社に勤務する知り合いを頼りに、マンガ編集部に何度か作品を持ち込むようになる》

16ページのものを持ち込んでも、まったく相手にしてくれない。それならと88ページという長編「殺刃者」を持っていくと、「これだけのものを持ってこられても連載できない」と言われて…。そのころデビューした人の絵が、自分より明らかに下手だった。どうしたらデビューできるか聞くと、「この人はアシスタントを何年もやっていて安心できるんだ」と言われた。「そういう実績がないとダメだということなら、誰か紹介してほしい」とお願いしたんです。誰がいいのかを聞かれたので、ファンだった手塚治虫先生に連絡を取ってもらいました。それで約束の日、虫プロに原稿を持っていったのですが、先生は大阪へ出張中。代わりに見てくれたアシスタント・チーフにほめてもらいましたが、先生に会えなかったショックは大きかったですね。(聞き手 伊藤洋一)

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