虎番疾風録

止められない俊足、成功率8割 其の参57

虎番疾風録 其の参56

昭和52年の南海に何が起こったのかを知る前に、まず「広瀬叔功(よしのり)」という男を知っておこう。

11年8月27日生まれ、広島県出身。県立大竹高から30年に南海にテスト入団。当初は「投手」だったが、同年6月「野手」に転向した。俊足、好打はすぐに首脳陣の目にとまった。

愛称は『チョロ』。名付け親は鶴岡監督といわれている。なぜ「チョロ」なのか。「わからんなぁ。気がついたらそう呼ばれとった。チョロチョロ動き回っとったからとちゃうか」と広瀬自身も詳しいことは分からないようだ。

30年代後半、南海担当だった平本先輩によると、当時の広瀬は鶴岡監督の“叱られ役”。「広瀬がまた親分に怒鳴られとるで」と笑っていた選手たちが、その広瀬が活躍し、チームの主軸になっていくと「あの広瀬でも叱られるんや。俺たちも頑張らな」という声に変わっていったという。

広瀬は「天才」である。そう公言したのは1歳年上の野村だった。

「私の野球人生の中で“天才”といえる選手は3人。長嶋とイチローそして広瀬だ」。野村によれば広瀬の天才の理由は「練習しなくても打てたから」だという。その野村がある日、広瀬に「次に来るタマ、教えたろか?」と声を掛けた。野村はデータを分析し、投手が次に投げる球種がほぼ分かっていた。だが、広瀬は断った。

「そんなもん分かっとったら、真剣勝負になりゃせん。投手に失礼やし、卑怯(ひきょう)や-と思ったんや。ワシも若かったのう」と回想した。

広瀬は36年から5年連続で「盗塁王」に輝いた。通算596盗塁は歴代2位。成功率82・9%は今でも破られていない大記録である。偉大なのは一度たりとも記録のために走ったことがないのと、打者に迷惑をかけないために、ほとんど初球か2球目で走ったこと。

広瀬の足を止めるすべはなかった。連続12球も牽制(けんせい)球を投げた東京オリオンズの坂井は「広瀬さんはリードが大きい。だから何度も何度も牽制球を投げれば、足が疲れて走れなくなると思った」という。それでも走られた。

52年9月、広瀬はシーズン終了を待たずに現役を引退した。「とにかくゆっくりしたかった」。ところが、突然起こった「野村騒動」の波にのみ込まれてしまったのである。(敬称略)

虎番疾風録 其の参58

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