虎番疾風録

死のロード、初取材で「助けてぇ!」 其の参50

虎番疾風録 其の参49

甲子園球場を高校球児たちに明け渡し、阪神は8月5日、ナゴヤでの中日戦を皮切りに、ヤクルト(神宮)―広島(平和台)―巨人(後楽園)―広島(広島)―大洋(横浜)と23日間の長期ロードに出発した。

昭和40年代、まだ山陽新幹線が開通していなかった時代は、東京や名古屋から広島への移動は夜行列車などを利用。選手の肉体的負担も大きく、成績を落としたため「死のロード」と呼ばれるようになった。だが、筆者が「虎番」だった50年代後半は、移動も飛行機を使い、宿舎もホテル。苦しいどころか楽しくてしようがなかった。試合が終わればサッサと自宅へ帰ってしまう甲子園球場での試合と違い、遠征では宿舎に行けばいつでも選手と会えた。

8月12日、阪神は平和台球場での広島戦のため、東京から飛行機で福岡入りした。46年のオープン戦以来、初の公式戦開催。監督は西鉄時代〝怪童〟と呼ばれた中西。真弓や若菜、加藤博、竹之内といった元ライオンズの選手もズラリ。『故郷シリーズ』と呼ばれた。さっそく「今晩、屋台へ飲みに行くか?」と小林や竹之内から誘われた。

13日の13回戦は先発江本が打ち込まれ3―7で敗れたが、翌14日は6ホーマーが飛び出す乱打戦を8―4で制した。

◇8月14日 平和台球場

広島 000 201 100=4

阪神 100 500 20×=8

(勝)山本10勝5敗2S (敗)山根10勝6敗

(本)真弓(25)(山根)、山本浩(29)(山本)、水谷⑬⑭(山本)、山本①(山根)、ライトル⑭(山本)

初めての平和台球場は楽しいことばかりではなかった。当時の記者席はガラス張りではなく金網で仕切られていた。扇風機らしきものはあったが、記者たちは汗だくになって原稿を送った。今のようにパソコンで打ち、送信するのではなく、手書きの原稿を電話で読み上げるのだ。試合が終わってしばらくはよかった。ところが、スタンドの照明が消されると…。

どこからか聞こえる「ブーン」という羽音。えっ、何? それまで数基の照明灯に群がっていた蛾や虫たちが、一斉に記者席目がけて襲ってきたのだ。汗ばんだ腕や顔にへばりつきもがく虫たち。口の中にも…。〈助けてぇ!〉以後、スタンドの照明は、記者たちが全員帰るまで2基は消さない―と配慮されたのである。(敬称略)

虎番疾風録 其の参51

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