虎番疾風録

球団の「コーチ更迭」にブチ切れ 其の参48

虎番疾風録 其の参47

「広岡騒動」といっても表向きには1人の監督が、成績不振の責任をとって辞めた―という、プロ野球界ではごくありふれた出来事。では、何が「騒動」だったのか。

昭和54年8月15日、当時ヤクルトの監督だった広岡達朗が突然、東京・世田谷の自宅に担当記者を集め「シーズン終了後に、チーム不振の責任をとる」と辞意を表明した。

ヤクルトはその年、開幕早々に8連敗するなどスタートにつまずき、さらに故障者が続出。この8月15日時点で30勝45敗9分けの勝率・400。5位大洋と7ゲーム差の最下位だった。とはいえ、広岡は53年オフに球団と3年契約を結んだばかり。シーズン終了後の〝進退伺〟ならともかく、契約を2年以上残しての辞意表明は尋常ではなかった。

実はチームの現状を打開するため、佐藤球団社長、相馬専務らヤクルト球団フロントが広岡監督へ『コーチ陣刷新案』を提示していた。その案とは、森ヘッドコーチをスコアラーに。そして植村投手コーチと近藤守備コーチを2軍に降格させる―というものだった。広岡監督がこの球団案を受け入れるわけがなかった。「不振の責任はすべて監督の私にある。納得できない」と拒絶。冒頭の緊急会見となったのだ。

「なぜ、コーチが外されたり降格させられたりするのか―と社長に尋ねたら『選手に対する態度に愛情が足りないから』という。そりゃぁ、彼らだってつい、一生懸命になって怒鳴ったりすることもありますよ。もちろん、代えるつもりはない」

だが、球団はそれでも行動を起こした。17日の午後、神宮のクラブハウスに森ヘッド、植村投手両コーチを呼び、「休養」を申し渡したのだ。当然、広岡監督は反発した。この日、後楽園球場で行われる予定だった巨人戦の「指揮権」を放棄。そして、会見を開き『声明文』を読み上げたのである。

「現場の責任者である監督の意向を無視した2人のコーチの更迭問題―に対する球団側の態度は極めて遺憾である。佐藤社長に、こうした状況では指揮はとれない―と申しあげたところ、『それでは辞表を出したまえ』という言葉がありました。こんな事態に立ち至ったことは、ファンのみなさんはじめ、全力で戦っている選手諸君には何とおわびしたらよいか分かりません…」

それは広岡監督の「辞任宣言」だった。(敬称略)

虎番疾風録 其の参49

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