虎番疾風録

チーム再建へ西武の決断 其の参47

虎番疾風録 其の参46

楽しかった〝夢〟のオールスターゲームも終わった。各チームが後半戦へ準備に入った7月25日、サンケイスポーツの1面に『西武根本監督、今季で勇退』『後任に上田氏招聘(しょうへい)へ』のニュースが載った。

西武の「チーム再建」へ向けた動きは素早かった。西武担当記者によると、1年目の昭和54年、前後期とも最下位に終わった時点で最初の「監督交代」が検討されたという。

もともと「監督」よりも新人発掘やトレード工作などチームの「編成」に力を発揮し、後に『30万人の人脈を持つ男』といわれる根本。球団首脳は「フロント入り」を堤オーナーへ進言した。だが、オーナーの意向は「根本さんは西武の社風に合っている。もう少し(監督を)やってもらってもいいのでは」というものだった。

続投-。だが、2年目の55年シーズンも低迷(5位)。この年で監督の契約が切れることもあり、球団は「やはり、根本さんには西武王国を築きあげるために〝陰の力〟となってもらおう」という方針でまとまった。

すぐさま、後任監督候補の人選に入った。前ヤクルト監督・広岡達朗、前阪急監督・上田利治、現阪神監督・中西太、野球評論家・豊田泰光らの名前が挙がった。その中で根本が推したのが広岡だった。根本が広島の監督だった45年、当時、サンケイスポーツの評論家だった広岡を1軍守備コーチとして招き、自ら“帝王学”を伝授したいわゆるまな弟子。ところが、この広岡招聘案に堤オーナーが「待った」をかけた。理由は「西武のイメージに合わない」からという。

「球界のリーダーとなるためには、最高級の監督を迎えねばならない」

堤オーナーは上田を希望した。いや、それだけではなく、自ら阪急の森オーナーに「次期監督に上田さんを考えています。そのときはよろしくお願いします」とバックアップを申し入れたのである。

筆者は疑問に思った。〈なんで広岡さんが西武のイメージに合わんのやろ?〉ヤクルトを球団初の「日本一」に導き、阪神の小津球団社長が53年オフ、新監督を選ぶ際にリストアップした中の一人ともいわれている。まぎれもない「名将」である。そんな逸材をなぜ…。

平本先輩が言った。「広岡騒動の影響やろ」―と。(敬称略)

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