特攻隊75年 語り継ぐべき思い 自己犠牲…日本の再生託し 編集委員・宮本雅史

当時、19歳で海軍1等飛行兵曹だった彼は2度出撃した。1度目は回天の電動縦舵機が故障して発進できなかった。2度目は太平洋上で敵艦隊を探したが遭遇できず、そのまま洋上で玉音(ぎょくおん)放送を聞いた。

「1回目に発進できたのは5基のうちわずか2基。1基は敵艦に突撃したが、もう1基は自爆だった。自爆の音は今でもはっきり耳に残っている。彼が何を思いながら自爆装置のボタンを押したのかと思うと、胸が詰まって何も考えられない」。さらにこう続けた。「平和を守るためには体を張らないとだめなんだ。今の日本人を見ていると、戦友が何のために死んでいったのか子供や孫に伝えないといけないと思うようになった」

死と向き合って

元搭乗員の男性は第13期甲種飛行予科練習生だったが、学徒動員組は別の感情が交錯していた。神風特別攻撃隊正気隊の元隊員は「特攻隊名簿に自分の名前を見たときは、顔面蒼白(そうはく)になったと思う。覚悟していたが、全身の血が逆流したような気持ちがした」と話す。

早稲田大学から学徒出陣で海軍飛行14期予備学生として訓練を受けた。鹿児島県鹿屋市にあった海軍串良飛行場から2度出撃したものの、いずれも不時着などで帰還している。

「串良に行ってからは、特攻出撃の夢を見てはうなされた。自分が敵艦を目指そうとすると、敵の遊撃機が向かってくる。死と向かい合っているから、自分の死にざまが夢に出てきた。予科練は若くて血気盛ん。われわれのように娑婆(しゃば)をある程度知っている者と違って、特攻隊員として与えられた任務ということで潔かった」

それでも、娑婆っ気が多かった気持ちを切り替えさせたのは、純粋な思いだった。元隊員は「ずーっと負け戦だった。親と日本を救うため自分たちが自己犠牲をすることで再生の道が開けるのではないかという『人柱』になる気持ちだった」と語る。

3代、4代先まで

よく特攻隊を「犬死に」と称する声を聞く。筆者はそのたび「特攻隊を犬死ににするかどうかは、戦後を生きるわれわれがどういう国づくりをするかにかかっている」と言うようにしている。さまざまな思いを胸に秘め、若くして命をささげた特攻隊員。そして、さまざまな思いで隊員を見送った家族。特攻隊員は多くの日本人の思いを背負って出撃していった。

終戦の日を迎えるたび、特攻隊員と彼らを見送った家族らの思いを3代、4代先まで語り継がなければならないと痛感する。