特攻隊75年 語り継ぐべき思い 自己犠牲…日本の再生託し 編集委員・宮本雅史

鹿児島・知覧など九州南部の基地から飛び立った特攻隊員たちは、さまざまな思いを胸に最後の本土の景色となる開聞岳を眺めたに違いない (鈴木健児撮影)
鹿児島・知覧など九州南部の基地から飛び立った特攻隊員たちは、さまざまな思いを胸に最後の本土の景色となる開聞岳を眺めたに違いない (鈴木健児撮影)

毎年8月15日になると必ずあるシーンを思い出す。昭和、平成と時を刻み、令和初の終戦の日を迎えても同じだろう。古い話になるが、米国マサチューセッツ州のある小学校で体験したことだ。

確か祝日だった。子供たちが教室に整列し、その向かいに勲章を胸にした軍服姿のお年寄りが並んでいた。何が起きるのかと思っていると、教員が口を開いた。「おじいさんたちのおかげで、アメリカの民主主義が守られてきた。みんなで感謝しましょう…」。子供たちは手を胸にあてながら「We APPRECIATE…」と感謝の言葉を述べる。お年寄りは満面の笑みで子供たちを見渡す。

戦争は悪だとは分かっている。だが、全員で「自分たちが平和に暮らせるのは祖国を守ってくれた人たちのおかげだ」と感謝する。子供たちの体には感謝と国を守ることの大切さ、平和のありがたさが刻み込まれる。米国のすごさと強さを感じ、国家の基本的な在り方を見た。もし、同じことが日本で行われたとしたら、国民はどう反応するだろうか。

家族守るために

旧日本海軍の神風特別攻撃隊が昭和19年10月、初めての攻撃を実行してから今年は75年目になる。特攻隊結成を決断した海軍の大西瀧治郎中将が「統率の邪道である」と語ったように、特攻作戦は当時でも邪道だという認識を誰もが持っていた。だが、忘れてはいけないのは、作戦の是非を議論する前に、多くの若者がさまざまな思いを胸に、実際に特攻隊員として出撃していったという紛れもない事実だ。

筆者は25年ほど前から、元特攻隊員やその遺族らと交流を持ち、機会あるごとにインタビューを重ねてきた。

戦況は日を追うごとに悪化し、米軍の圧倒的な物量作戦の前に日本の敗退は時間の問題となっていた。しかも、軍首脳部は先を見通せないまま戦略を立てられずにいた。インタビューからは、祖国のため、家族のために命をささげた自己犠牲の極致というべき姿が浮かび上がってくる。

10年ほど前に話を聞いた人間魚雷「回天」の搭乗員だった男性は、こう振り返っていた。

「日に日に空襲が激しくなり、親兄弟が殺されている。出撃した仲間は戦死して帰ってこない。本土が戦場になれば、大量殺戮(さつりく)、国土崩壊は目に見えている。戦争が良いとか悪いとかという問題とは別に、何とかして敵の侵攻を食い止めたいという気持ちが本能的に出てくる。この感覚は今の人に理解できないかもしれないが、当時の若者はみんなそう考えていた」