忘れられた同胞・フィリピン残留2世(下)

祖国居場所なく「私たちは棄民」 国籍回復へ「政府の支援不可欠」

流暢な日本語で戦時中の体験や日系人の苦難について話すカルロス・テラオカさん=7月1日、フィリピンのバギオ市(橋本昌宗撮影)
流暢な日本語で戦時中の体験や日系人の苦難について話すカルロス・テラオカさん=7月1日、フィリピンのバギオ市(橋本昌宗撮影)

 標高1500メートルの高地にあり、冷涼な気候で知られるフィリピン・ルソン島北部の町、バギオ。アメリカ統治下の20世紀初頭、このバギオを避暑地として開発しようと、首都マニラとの間を結ぶ道路の建設が計画された。工事には日本人を含む外国人労働者が多く参加した。

 日本人の一部は現地に残り、移民の先駆けになった。マニラやバギオでは日本人コミュニティーが発達。持ち前の勤勉さで財をなした人も多かった。バギオに住むカルロス・テラオカさん(88)の父親もそんな「成功者」の一人だった。

 建設関係の仕事を手がけ、運転手付きの車に乗り、マニラに行くときは飛行機を使うなど羽振りがよかった。カルロスさんも地元の日本人学校に通い、何不自由ない生活だったが、父親は1941年8月に病死。12月には日本がアメリカと戦端を開き、まもなく日本軍がフィリピンを占領した。

 日本人学校は国民学校と名前を変え、カルロスさんも「お国のために尽くす」心構えをたたき込まれた。「日の丸をつけた飛行機が飛んでいるのを見ると誇らしかった。戦闘機のパイロットになりたくて、軍に志願したこともあった」。流暢(りゅうちょう)な日本語で振り返る。

 ■複雑な感情消えず

 だが、戦火が広がるにつれ、日本人移民の立場は厳しさを増していった。カルロスさんの一番上の兄はスパイ容疑をかけられて日本軍の憲兵隊に殺され、2番目の兄は地元の反日ゲリラに殺害された。45年4月には米軍の爆撃に巻き込まれて母や弟が死亡した。

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