大平首相の突然の死去は、猛虎たちにも大きな影を落とした。
明治43年3月、香川県三豊郡豊浜町の中農の三男として生まれた大平は高松高商を卒業した。阪神の小津球団社長の母校の大先輩である。そして中西監督とは同郷。生前に残した有名な〝大平語録〟の中にこんな言葉がある。
『中西の顔と私の顔が香川県の代表であります。ツラはまずいが悪人はおりません』。中西監督はずっとこの言葉を誇りに思っていた。訃報が届いた6月12日、福井で行われた中日戦の試合前、ファンも両軍の選手たちも、1分間の黙禱(もくとう)をささげた。なんとしても勝たねば…。
◇6月12日 福井県営球場
阪神 040 001 110=7
中日 411 400 10×=11
(勝)藤沢1勝9敗 (敗)深沢1勝1敗
(S)金井2敗2S
(本)真弓⑨(藤沢)、宇野②(深沢)、木俣③(藤原)
最下位の中日にまさかの3連敗。貯金はゼロとなり5位に転落した。5月27日時点で阪神は18勝13敗2分け。首位広島に2・5ゲーム差の2位にいた。〈やっと笑える日がきた〉と筆者も思った。ところが、大平首相が「息苦しい…」と緊急入院した5月30日、阪神にもアクシデントが起こった。横浜での大洋戦の試合前の練習中、打撃練習をしていた佐野の打球が三塁で守備練習をしていた掛布の左ひざを直撃したのである。
幸いワンバウンドで当たったのと、痛めていた左ひざ半月板より5センチほど下に当たったため、大事には至らなかったが、欠場を余儀なくされた掛布は「外野の芝との切れ目に当たって打球がイレギュラーしたんです。くそっ」と不運を呪った。
再び主砲を欠いた猛虎の勢いは消えた。30日の試合を1―2で落とした阪神は6月に入るとこの12日の負けで2勝5敗2分け。原因は「投壊」と「拙守」。この試合もいきなり先発の工藤が4点を取られ、二回に真弓の満塁ホームランで同点にしたが、深沢が宇野に一発。四回には藤原が木俣にお返しの満塁ホームランを浴びた。
守りのミスさえなければ食わずに済んだ一発だった。四回2死一、二塁で代打・石井の二ゴロを岡田がお手玉して満塁に。その直後の本塁打。「もっと前へ出て処理できたゴロだった」。高価なエラーに岡田は唇をかんだ。(敬称略)