昭和55年5月24日、日本中ががっかりした。この年の夏に開催される第22回夏季オリンピック「モスクワ大会」への、日本の全面不参加が正式決定したのである。
参加か不参加か-と苦悩する日本オリンピック委員会(JOC)は24日、午後2時から東京・渋谷区の岸記念体育会館で臨時総会を開いて協議。「不参加やむなし」とする柴田委員長の見解について挙手採決した結果、「賛成29」「反対13」で不参加を最終決定した。
ことの起こりは前年の1979年12月に起きたソ連のアフガニスタン侵攻。冷戦でソ連と対立する米国のカーター大統領が80年(昭和55年)1月に五輪ボイコットを提唱。日本政府にも不参加を迫った。
政府は2月に不参加の方針を決定。JOCは「なんとか参加できる道はないか」と模索したが、世界の動向、国内の諸事情からみれば「不参加」以外の道はなかった。
「やっぱりダメでしたか…。ボクも日本人ですから従わざるを得ません」。多くの報道陣の前で柔道の山下泰裕(当時、東海大大学院)は、ガックリと肩を落とした。
英国やイタリアのように政府が反対しながら参加を決めた国もあった。だが、先輩の松田記者によると―。
「JOCは独立団体-といっても、現実は体協(日本体育協会)を通じ、政府から巨額の補助金でアマスポーツは成り立っている。55年度予算約42億円のうち16億円近いお金が補助金として出ているんだ。英国やイタリアのように競技団体やスポーツ団体独自で予算を持っているのとは事情が違うんだよ。それに大平首相が米国や西ドイツで不参加を約束したことも大きく影響したと思う」
政府には政府としてのメンツがかかっていたのだ。総会に先立って開かれた日本体育協会の臨時理事会では“政府代表”として会議に出席していた伊東正義官房長官がこう言った。
「政府としては参加に反対であり、アフガニスタンのソ連撤兵がない限りこの方針は変わらない。たとえ少数精鋭でも参加は好ましくない」と強い反対意見を表明した。不参加に反対票を投じる競技団体へは「今後の支援は微妙」という圧力までかけられていた―ともいわれている。
こんな大きな出来事なのに…。当時の筆者の感覚はまるでひとごと。目の前の中西阪神の〝神がかり〟的攻勢に酔っていたのである。(敬称略)