5月15日、甲子園球場での退団会見でブレイザー監督はこう語った。
「辞める理由は…。まず、ヒルトンが解雇されたこととは関係ない。状況からいって彼は辞めざるを得なかった。しかし、新しい外国人選手について私はOKできなかった」
球団はヒルトンに代わる助っ人としてメッツのボウクレア外野手(28)の獲得を進めていた。それが気に入らない? そんなことが言える立場だろうか。球団が期待していた独自のルートもなく、獲得したのはヤクルトの〝お下がり〟。球団の新たな補強に文句をいえた義理ではない。
マスコミが第1の理由とした小津社長との「対立」も、ここまでの経過をみればむしろ、社長は監督擁護に立っていたといえる。実はマスコミが「対立」とした根拠は、4月21日、記者たちと雑談をしていたときの社長の発言だった。記者たちの「岡田を使えとブレイザーに指令しないんですか」の質問にこう答えた。
「ある人に言われたんだが、そんなややこしいことをするより、思い切って(監督の)首をチョンとしてしまえばもっと簡単だってね。ハハハ」
もちろんジョークである。もし、監督との「対立」があったとすれば、それはむしろ対マスコミだったろう。理由が分からぬまま時がたった。
4年後の昭和59年11月23日、吉田監督の就任会見が行われた日のことだった。その日は「新監督」の他に「新オーナー」(久万俊二郎)と「新球団社長」(中埜肇)も発表された。阪神タクシー社長に〝更迭〟された小津社長は6年間のタイガースでの思い出を話した。そのなかで〝一番の後悔〟として「ブレイザー監督の辞任を止められなかったこと」を挙げたのである。
「岡田の起用問題でブレイザーに非難が集中し、ファンの嫌がらせで奥さんがノイローゼになってしまってね」
心ないファンの嫌がらせは度を越えていた。無言電話、脅迫電話、カミソリが仕込まれた封筒、ゴキブリの入った手紙、そしてネズミの死骸の入った小包まで…。家族の身の危険を感じた夫人は、ブレイザーに「すぐに帰国しましょう」と強硬に迫ったという。これが退団の真相だった。
「どうしても辞任を止められなかった…」。ブレイザー家族を窮地に追い込んだその責任の一端は当然、マスコミにもあった。(敬称略)