話の肖像画

バレエダンサー・熊川哲也(47)(2)負けじ魂に火が付いた

発表会で踊る少年時代(右)=昭和59年ごろ
発表会で踊る少年時代(右)=昭和59年ごろ

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〈昭和61年、中学2年のときに第43回全国舞踊コンクールジュニア部に出場した〉

初めてのコンクールで、決選に行くとは思いもしませんでした。結局、成績は9番目でしたので、決選に進んだ中では最下位だったかもしれません。

当時は他の子たちのレベルも知らず、ただバレエは楽しいという思いだけで挑戦し、東京で開催されているコンクールの同い年の男子たちが踊るステップには衝撃を受けましたね。今まで見たことがないステップで、北海道と違って東京はこういったバレエの情報も早いと感じました。彼らの踊りを見よう見まねで練習して、翌年の同じコンクールでは4番目の成績でした。だから僕は日本では無冠ですよ。

今振り返ると、あの時いきなり優勝しなくて良かったのかもしれません。実際、コンクールに出場するようになってから、生来の負けじ魂に火が付き、それまではバレエのレッスンは(北海道)滝川から先生がやって来る週2日だけでしたが、先生がいない日も毎日1人でレッスンするようになっていました。

他の教室の発表会で誰かが3回転をしていたら、僕は4回転をしてやろう、他の男子よりも高くジャンプしてやろう、とそんなことばかりを考えていました。

〈中学3年の2月、スイス出身のバレエ教師の講習会をたまたま札幌で受け、英国のロイヤル・バレエ学校への留学を勧められた〉

実は、講習会の初日は参加していません。何かささいなことで当時習っていたバレエの先生に口答えをして、「哲也は講習会に参加させない」と怒らせてしまったのです。ところが講習会初日を見学した先生が「これは素晴らしい。ぜひ哲也にも習わせたい」と思ってくれ、2日目から僕を参加させてくれました。あのとき、先生が思い直してくれなかったら、いまの僕はなかったかもしれません。運命の不思議さでもあり、怖さでもありますね。

〈ビデオテープによる審査の結果、ロイヤル・バレエ学校から入学許可が下り、昭和62年夏、単身英国へ向け、旅立った〉

成田空港まで札幌の家族が見送りに来てくれました。出国するときに特別な言葉をかけてもらった記憶はありませんが、英語も話せない、地理もよく分からない15歳の少年が1人で遠い外国に行くのですから、親がいちばん心配したと思います。

〈技術レベルが高いと評価され、ロイヤル・バレエ学校ではいきなり17歳から19歳が通うアッパー・クラス(1~3年)の2年生からのスタートとなった。同級生はみな年上で、体も大きかった〉

ロイヤル・バレエ学校のレッスン初日は、「自分の力をここで見せないといけない」とずいぶんと気負っていました。萎縮するどころか、最初からエンジン全開でピルエット(回転)も2回だけでよいところをわざと15回も回ってみせたり、ジャンプのときも他の生徒の2倍は高く跳んだりしていましたね。(聞き手 水沼啓子)

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