遺伝子を狙い通りに改変するゲノム編集の技術を使った双子の誕生が物議を醸し、「命の尊厳」に関わる出生前診断の議論も依然続く。川上未映子さん(42)は自身最長の小説『夏物語』(文芸春秋)で、そんな生殖倫理の問題を掘り下げる。なぜ人は生まれ、人を産もうとするのか? 根源的な問いが、生きづらさを抱えた登場人物の心と響き合い、切なくも温かな余韻を残す。(文化部 海老沢類)
生殖倫理
主人公は大阪の下町から作家を志して上京した夏目夏子。作家デビューし、38歳となった夏子に「自分の子供がほしい」という願いが兆す。生活ぶりは安定からほど遠い。独身で恋人もいないしセックスも苦痛でできない。それなのに産みたい気持ちは募る。
物語は2部構成で、前日譚といえる第1部は芥川賞受賞作「乳(ちち)と卵(らん)」と大枠が同じ。豊胸手術を受けようとするホステスの姉とその娘と過ごす夏子の3日間を、大阪弁で紡ぐ一編が語り直されている。
「この数年、生殖倫理のことが頭に浮かんでいたんですね」と川上さん。その問題意識が女性の身体や生殖への違和を感じ取る「乳と卵」の娘・緑子(みどりこ)の姿と重なった。「(生殖技術の発達によって)命は授かるよりもつくるという側面が多くなり、結婚し子供を持つことも当たり前ではなくなっている。産み、生まれることは社会的、倫理的にどういうことか? それは今の物語になると思ったんです」
「死者」と会う
性行為を拒む夏子はAID(配偶者の関係にない者同士の人工授精)で生まれた医師の逢沢潤と出会い、心を通わせる。だが、AIDでの出産を考える夏子に対し、逢沢の恋人で、子供の頃に性的虐待を受けて地獄を見た善(ぜん)百合子が痛烈な言葉を吐く。生まれるのは素晴らしいことじゃない、出産は親の暴力であり身勝手な賭けにすぎない-と。なぜ子供を?と百合子に問われ、夏子はただ〈会いたい〉から、と答える。
「生まれなければ悲しみも痛みもない。『死』が取り返しがつかないものであるように、出発点である生まれてくることの取り返しのつかなさもある。ツケを払うのは子供ですもんね」
川上さん自身は35歳のときに息子を出産。百合子の痛みに共感しつつ、こうも話す。「欲望は人それぞれ。夏子がなぜ子供をほしがるの?って考えたとき、『死者と会う』ことだと私は思ったんですよね。もう会いたくても会えない人と会う。面影に触れることで何かにつながるんだと」
深遠な対話と議論が牽引(けんいん)する物語を、いくつものいとおしい情景が支える。節目に出てくる外界を望む窓や、観覧車のゴンドラの描写がとくに印象深い。執筆中、「この物語は『窓』から『扉』に向かう話なんだと考えていた」と明かす。
「窓は遠くにあるものを見る憧れの回路ですよね。そこから人は出入りしないから主体性は伴わない。でも扉は自分で出入りできるもの。(観覧車の)ゴンドラって、窓と扉が同時にある世界で唯一の場所なんですよ」。人はいつも願望と現実の行動とのはざまで揺らぐ。そして間違っている可能性も覚悟の上で選択を下し、小さな一歩を踏み出す。夏子のそんな姿を肯定も否定もしない視線が小説の器を広げている。「人間が生まれてきて生きていく-。そのことの選択と痛みを受け止めてもらえたら」
次は「宗教」
デビューから10年余り。原稿用紙1千枚の大長編を不思議な没入感の中で紡いだ。「最後は、声は出なくなるし目も乾いて開けにくい状態。でも気持ちは絶好調で…」と笑う。「いつも仕事場に誰かがいる気がするの。イマジナリー・フレンド(空想の友人)じゃないけれど、その人に言われて私はひたすら労働している感じ、ですね」
気持ちは次の題材に向いている。オウム真理教以後の宗教をめぐる問題だ。
「信仰と宗教…。これは生殖倫理とも関わる、私の念願であり、本丸。10年くらいずっと資料を集めているんですよ。絶対に、2千枚くらいでやります」