話の肖像画

マラソンランナー・君原健二(78)(5)

東京五輪のマラソンで35キロ付近を走る君原健二 =昭和39年10月21日
東京五輪のマラソンで35キロ付近を走る君原健二 =昭和39年10月21日

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■円谷の「銅」と悔しい8位

〈東京五輪のマラソンは国立競技場を発着点に甲州街道をひたすら西に進み、現在の「味の素スタジアム」に隣接する地点で折り返す42・195キロ。エチオピアのアベベ・ビキラは17キロ付近でスパートし、そのまま独走でゴールしてローマ五輪との連覇を飾った。続いて競技場に姿をみせたのは円谷幸吉だったが、トラックの第3コーナーで猛追してきた英国のベイジル・ヒートリーに抜かれて銅メダルとなった。東京五輪の陸上競技で日本選手が獲得した唯一のメダルである。エースと期待された君原健二は序盤から先頭集団に遅れ、終盤、順位を上げて8位でゴールした。現行なら入賞だが、当時の入賞は6位までだった〉

折り返しの手前でアベベとすれ違いました。遊んでいるかのような軽い走りにみえました。後方の集団に円谷さんの姿もありました。さあ後半戦だ、がんばろうと思ったのですが、体が動きませんでした。競技場の直前で1万メートルの世界記録を持っていたロン・クラーク(豪州)を抜いて、8位でゴールに入りました。疲れ切って控室の簡易ベッドに横たわると、そこに円谷さんがいました。なんとも悲しげな表情をしているので声も掛けられず、ひょっとして棄権してしまったのかなと思ったのです。やがて銅メダルを取ったが、トラックで、国民の前で追い抜かれたことを悔やんでいたのだと知りました。

しかし円谷さんは、自己記録を2分近く上回って3位だったのです。私は自分の記録より3分半も遅く8位。自己記録で走っていれば2位でした。心技体がそろっての競技力です。当時の私は力はあったが、技術や精神力に欠けていたのです。

〈レース当日、宿舎で悔恨の日記を書き残している。「おれは世界の選手を相手にレースをするには、まったくだめな男だ。こんな大事なレースにおれは何度レースを投げようとしただろうか。まったく恥ずべき態度だ」。2日後の日記はさらに激烈である。「おれの横にはすばらしい成績をおさめた人間(円谷)が寝ている。すべての人からほめたたえられる。それを見てねたみ、さびしくなる」。自身の著書には「同僚の成功をすなおに喜べなかった私の精神構造ゆえに、私は人に敗れる前に、私自身にすでに敗れていた」の記述もある〉

人に見せるためのものではなく、自分のための日記ですから、それが当時の正直な気持ちだったのだと思います。レースの翌朝も早く起きて、神宮外苑を走りました。それが日常でしたから。すると今までの走りとまるで違うのです。まるで雲の上を走っているように、自由にのびのびと走れるのです。走るということがすごく気持ちよくて不思議だったのですが、レースまでは職場の、地域の、国の代表としての責任があり、それが全部解放されたということなのかもしれません。

〈それだけ背負っていたものが重かったのだろう。五輪後、競技生活からの引退を決意する〉(聞き手 別府育郎)

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