聖武天皇「吉野宮」確実に 奈良・宮滝遺跡、新たに建物群

 飛鳥・奈良時代に天皇がたびたび行幸(ぎょうこう)した離宮「吉野宮(よしののみや)」跡と推定される奈良県吉野町の宮滝遺跡(国史跡)で、昨年見つかった奈良時代前半(8世紀前半)の大型建物跡の周辺に、同時期の建物群や空間を囲う塀が整然と並んでいたことが新たに分かり、吉野町教委と県立橿原考古学研究所が19日発表した。出土した瓦の特徴なども合わせ、聖武天皇(在位724~749年)が行幸した離宮であることが確実になったという。

 宮滝遺跡は昭和5~13年に石敷きが広がっていることが判明、吉野宮との関連が注目された。昨年5月、四方に庇(ひさし)がついた格式の高い大型建物跡(東西23・7メートル、南北9・6メートル)が見つかり、中心施設の「正殿」の可能性が指摘された。

 今年1~3月の発掘調査を精査した結果、正殿の北側に付属する「後殿(こうでん)」や東西の「脇殿(わきでん)」とみられる建物跡、さらに離宮を囲った61メートルに及ぶ塀跡が、中軸線に合わせて整然と配置されていたことが判明した。

 建物や塀の柱穴から出土した瓦は、平城宮跡(奈良市)で見つかった聖武天皇在位時の瓦と似ており、聖武天皇や元正天皇が滞在した離宮の可能性が一層高まったという。

 新元号「令和」の典拠となった歌会「梅花の宴(ばいかのうたげ)」を主宰した大伴旅人は724年、聖武天皇の行幸に随行。気品のある山や川に囲まれた「芳野の宮」をたたえる万葉歌を残している。

 三重大の小澤毅教授(考古学)は「平城宮などの都城をほうふつさせる計画的配置が確認され、ほとんど不明だった古代の離宮の構造が具体的に把握できた意義は大きい」と話している。

 8月31日午前10時から、宮滝河川交流センター(奈良県吉野町)などで調査報告会がある。

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