パソコンと向き合う水着姿の男女3人。「エストニア人はインターネットで何でもできる。投票もそう。たとえ水風呂の中でも」。男性はこう言い放つと、自らの個人識別コードをパソコンに入力。画面の指示に従い、慣れた手つきで政党と候補者を選んだ。投票を終えた男性が強調した。「デジタルは完璧ではなく、リスクもある。それでも国民は『紙』よりもデジタルを信じる」
今年3月に実施された総選挙をめぐり、エストニア共和国から投稿された動画だ。男性らは同国ならではの投票手法を順を追って説明し、母国の強みを訴えた。
2005年、エストニアはネットを使った投票を世界に先駆けて解禁。パソコンだけでなく、スマートフォンからも受け付ける。利用には、日本でのマイナンバーカードのイメージに近いIDカードなどが必要だ。
デジタル化が進むIT先進国。資源の乏しい人口約132万人の小国だが、政府は1990年代からITを生き残る手段として重視し、ネット環境整備に積極投資した歴史がある。
時間は1分程度
「投票に必要な時間は1分程度。誰に投票するか考える時間を省いて、ですが」。駐日エストニア大使館のナンバー2、アルゴ・カングロ参事官が話す。
投票内容は暗号化され、のぞき見や改竄(かいざん)はできない。選挙システム上、把握できるのは、その人が投票の権利を行使したかどうかまでだ。
投票期間中であれば再投票も可能で、その場合は最新の投票が有効となる。仮に買収や投票の強制があっても、有権者の意思で投票をやり直す余地を与えるためだ。もちろんネット投票が嫌ならば、従前通り投票所で一票を投じればいい。
今年3月の総選挙の投票率は63・7%。このうち4割以上がネットを経由するなど、ネット投票者数は増加傾向にある。この選挙では、IT行政を批判する右派政党がネット投票での得票を伸ばす皮肉もあった。
カングロ氏が指摘する。「国民がネット投票の利便性に慣れ、後戻りできないということを示した」
日本と相違点も
世界から注目を集めるエストニアのネット投票は、そのまま日本でも導入できるのだろうか。
「10年以上の実績があるエストニアに学ぶところは多い」。情報セキュリティ大学院大学の湯浅墾道(はるみち)教授が解説する。湯浅氏は、若者や投票所に行くのを負担と感じる高齢者の選挙離れ対策になるとして、ネット投票の導入は不可避との立場。選挙結果が迅速に分かったり、投票所運営や開票作業の人員コストを減らせたりする利点もある。
ただ、日本とは大きく異なる事情もある。
エストニアのネット投票に必要なIDカードは、国民のほぼ全員が所持。カード1枚でバスに乗れたり、会社登記や納税などの行政手続きも済ませられたりする。対して日本でのマイナンバーカード普及率は今年4月時点で13・0%。「旧社会主義国では身分証の所持は当たり前。人口約132万人の『実験国家』との側面もあった」(湯浅氏)。
ネット投票のリスクはゼロではない。しかし、なりすましや買収などのリスクは「紙」の投票にもある。湯浅氏は訴える。「半数近くの人が投票に行かないという現実に、誰しもが目をつぶっている。熱心な支持者や動員された人だけが行く選挙は、本当に選挙といえるのか」
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第25回参院選で、候補者が舌戦を続けるなか、投票に行きたいと思える空気は醸成されているのだろうか。投票は民主主義の根幹だ。多くの国民が当たり前にネットに接する今、浮上した「ネット投票」。現状と可能性を考えた。