2年ぶりに甲子園にやってきた西武・田淵は八回、阪神の2番手大町から右翼・岡田の頭上を襲う右中間タイムリー二塁打を放った。一旦はグラブに当てた岡田。西武担当記者が岡田の守備の拙(まず)さを田淵に質問した。すると―。
「うまくないのは当たり前じゃないか。右翼は難しいんだ。飛んでくる打球もクセがあるし…。もっと長い目で見てやらなきゃ」
ムキになって岡田をかばう田淵に、記者たちは驚いたという。実は彼にはある思いがあった。
昭和50年8月末、甲子園球場での大洋戦でのこと。当時、阪神は3位。2位中日とは1・5ゲーム差。首位広島とは2・5。残り30試合の戦い次第では、まだまだ逆転優勝の可能性はあった。逆にひとつの敗戦が転落につながる―まさにシーズンの勝負どころ。その大事な試合で吉田監督はなんと、田淵を「右翼」へ回し「捕手」にはルーキーの笹本を起用するという〝冒険〟とも呼べる新布陣を敷いたのである。
理由は投手陣の不振。そして原因は田淵のリードや緩慢な動きにある―とされた。「打つことに気を使い過ぎて、守りがおろそかになっている」というのだ。当時の首脳陣には「気分転換になれば」という思いもあった。だが―。
27日の試合、右翼の田淵が長崎の二塁後方への打球を、スタートのタイミングが合わずヒットにしてしまい、3-5で敗れた。28日の試合も大洋打線は「一塁」遠井、「右翼」田淵の弱い〝右ライン〟を徹底的に狙い打った。
田淵の右翼守備は悲惨だった。一回、1死二塁で松原に右中間を抜かれて先制のタイムリー二塁打。四回にはシピンのつまった打球をスタートが遅れてヒットにすると、続く長崎の右中間安打をファンブルして無死一、三塁。そして伊藤の打球を追いかけミス。三塁打にしてしまい2点を奪われた。
思わぬ連敗―これには吉田監督も「自分の打った手がすべて裏目に出た。ファンにも選手にも悪いことをしました。次の広島戦から田淵は捕手に戻します」。わずか2試合で新布陣を撤回した。
「右翼は難しい…」。田淵にとっては辛(つら)い阪神の思い出だった。「でもね、甲子園のファンはありがたい。阪神を出てはじめて分かったんだ。みんなには縦じまのユニホームを大事にしてほしい」。それが田淵の思いだった。(敬称略)