タイガースが日本に帰ってきた。帰国第1戦は3月18日、甲子園球場での西武とのオープン戦。気温は6・6度。真っ黒に日焼けした猛虎たちは寒さに震え上がった。
◇3月18日 甲子園球場
西武 110 000 030=5
阪神 000 000 003=3
(勝)永射1勝 (敗)小林1敗
(本)山崎(1)(小林)、岡田(2)(松沼兄)
試合は“寒敗”。それでも「8番・右翼」で先発出場した岡田は、九回2死一、二塁から松沼兄の初球を左中間スタンドへ叩き込んだ。
「ちょっとつまったけど、思い切りよく振ったのがよかった」。アリゾナで見せていた思い詰めた表情がウソのように消えていた。実は帰国した日の夜、父親・勇郎さんからこんな言葉をもらっていた。「細かいことは気にせず無心でやれ。お前はお前の力を出せばいいことや」。短い言葉だったが一瞬で暗かった心が晴れたという。
この日、甲子園にもう一人、岡田を気遣う人がいた。西武に移籍後、2年ぶりに古巣の土を踏んだ田淵だった。彼は岡田の悩みも苦しみも分かっていた。
時は遡(さかのぼ)る。昭和44年、シーズン開幕前、ルーキー田淵は打撃不振のどん底で喘(あえ)いでいた。法大時代に22本塁打を放ち、鳴り物入りで阪神に入団したものの、いきなり「内角球が打てない」弱点が露呈。オープン戦で初本塁打が出るまでなんと17試合、60打席もかかった。
開幕まであと数日に迫った4月3日、岡山での中日とのオープン戦。先発した親友・星野にノーヒットに抑えられ「迫力がまったくない。大学のときよく打っていた外角寄りの低めのストレートまで打てなくなっている。あまり気の毒なのでカーブを投げるのを遠慮しました」とまで言われ、後藤監督もついに田淵の開幕「先発マスク」を断念した。そのときの苦しさ、悔しさに比べれば…。
「とにかくガムシャラにやる以外ない。オレが阪神に入団したときも捕手には2人の辻さんがいたけど、ライバルなんて思ったこともなかった。それどころじゃなかったしね。余計なことを考えず、ただ無心にプレーした。今の岡田にもそれが必要だと思う」
〈不思議な偶然や…〉田淵の口から出たのも父親と同じ言葉、「無心」のすすめ-。岡田の胸に深く染みこんだ。(敬称略)