ビブリオエッセー

「明日なき愛」の世界 「春は馬車に乗って」横光利一

今では横光を読んだことのある人は読書人でも少ないだろう。この小説は昭和2年に出版された短編集の表題作であり、短編ながら横光の代表作の一つとなっている。

幾多の艱難(かんなん)を乗り越えてようやく結ばれた若夫婦。しかし新婚の幸せもつかの間、新妻は23歳の若さで肺結核に倒れる…。描かれているのは療養所における夫婦の最後の日々だ。深い愛情で結ばれてはいるが病気ゆえの夫婦間の葛藤やすれ違い。「明日なき若夫婦」の焦燥や絶望はいかんともし難い。

「なお憂きことの積れかし…」と念じながら仕事と看護の板ばさみに苦しむ小説家の夫。それは作者の横光自身であり、最後の日々を淡々と綴っているのだが、この作品が亡き妻への精いっぱいの供養のつもりで書かれたことが伝わり、一層胸を打つ。

これを読んだのは高校生時代。70年安保や大阪万博、列島改造論の頃だ。今ではこの時代を懐かしむ人もいるのだろうが、俗臭芬々(ぞくしゅうふんぷん)たる世相に当時の私はなじめなかった。男女の関係もより通俗的、享楽的な面が目立ってくる。そんな中、私は「明日なき愛」の世界に憧れ、真実の愛には明日があってはならぬとさえ思ったりした。

いつの世でも、似たような状況下で悩み苦しむ若い男女はいるはずだ。だから無責任さは十分自覚している。それでも、いま読んでも一世紀も昔のこの二人に対する一点の羨望が残ってしまうのだ。

それが自らの不徳や月並みだった来し方の証に過ぎないとわかっていても…。

大阪府茨木市 竹中直道64

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