虎番疾風録

ヒルトン参上で「岡田一塁」暗雲 其の参12

虎番疾風録 其の参11

2月19日、阪神の米アリゾナ州テンピ・キャンプに“お待ちかね”の助っ人、デーブ・ヒルトンがやってきた。1カ月前までメキシコでのウインターリーグに参加していた-というだけあって、体はできあがっていた。

「去年(昭和54年)7月の阪神戦でヒット性の当たりを掛布にとられ、必死になって一塁へ走り込んだとき足の裏を痛めた。ケガをするまで3割とホームランも13本打っていたけどね。このケガでクビになった。でも、もう大丈夫さ」

ヒルトンにとって2度目のアリゾナキャンプだった。最初は米大リーグのインディアンスを解雇され、途方に暮れていた53年2月。ちょうど同州ユマでキャンプを張っていたヤクルトが「新外国人選手を探している」との情報を入手し、テストを受けにアリゾナキャンプに押し掛けた。

「便箋に“ぜひオレを使ってくれ”と自分で書いて売り込んできた。ボクははじめ、あまり獲得に乗り気じゃなかったが、あの必死さに動かされた。昼食のとき、ご飯にお醤油(しょうゆ)をかけてうまい、うまい-と食べていたのにはビックリしたよ。彼には“ハングリー精神”があった」。当時、ヤクルトの監督を務めていた広岡達朗の回想である。

ヒルトンは米国“南部のハーバード”といわれる名門ライス大で数学、歴史学、文学を専攻した。教師の両親に育てられ、大学を中退するまでは「教師になるのが目標」だったという。そんな知的な部分に広岡は惹(ひ)かれたのかもしれない。ヤクルトに拾われたヒルトンは大活躍した。1年目打率・317、本塁打19本、76打点をマーク。球団初のリーグ優勝、そして「日本一」に貢献した。

2度目のアリゾナキャンプ-。ヤクルトと違い、阪神でのヒルトンの立場は複雑だ。ブレイザー監督の最初の構想では「2番・二塁」。だが、実際にヒルトンの動きを見るうちに「二塁だけでなく、一塁や外野でもテストしてみたい」と徐々に考えが変わってきたのである。

阪神の二塁には中村勝、榊原とレベルの高い選手がいる。ヒルトンの加入でその2人を殺すことになっては助っ人としての効果は半減。なら、手薄の一塁や外野で-というわけだ。その構想に「ルーキー岡田」は入っていない。せっかく決まった岡田の「一塁」は? テンピに“暗雲”が垂れ込め始めた。(敬称略)

虎番疾風録 其の参13

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