手ぶらで日本にやってきたブレイザー監督に、球団首脳たちはショックを隠せなかった。
「電話だけとは…。どうして会いに行かないんだ。ルートを持っていないのなら、初めから球団に任せてくれてればよかったんだ」
大リーグのカージナルスで内野手として活躍。1958年のオールスターゲームに出場するなど、50年代後半のメジャーリーグを代表する選手だったブレイザー。その後、ジャイアンツやレッズ、セネタースなどに所属。経歴だけをみれば大リーグに太いパイプを持っていてもおかしくはない。だが、実際はその逆であった。昭和54年12月にカナダのトロントで開催されたウインターミーティングで聞かれたブレイザー評は悲惨なもの。
①カージナルス時代の同僚がほとんど大リーグ球界の要職についていない。
②十数年も米球界を離れ、その間の交流がない。
③外国人選手を1年で入れ替えるので、大リーグ関係者からの信頼がない。
こんなブレイザーに頼って、本当にいい選手が取れるのか? 編集局でも懸念する声があがっていたほど。
「そういやぁ、南海のコーチ時代にも、これといった選手は来てないなぁ」。小津球団社長は苦笑するしかなかった。ブレイザー監督退団の原因が本当に小津社長との「確執」であったなら、その発端は、このとき芽生えた小さな〝不信感〟だったかもしれない。
フローレス獲得の失敗は新たな展開を呼んだ。ヤクルトを自由契約となったヒルトンのブレイザー監督への〝売り込み〟が激しくなったのである。監督も「彼を取ってほしい」と球団に申し出た。だが、小津社長は獲得に消極的だった。
「よその球団のお古じゃなぁ。アピール度が弱い。それに岡田が入団したんだし、中途半端な外国人選手に頼るぐらいなら、無理に2人にしなくとも、日本人選手で十分補える。育てればいいんだ」
筆者もその通りだと思った。ヒルトンは内野手。岡田を将来、掛布と並ぶ大打者に育て、巨人のONに代わる「阪神のOK」とするには、守備位置のかぶるヒルトンは〝騒動の種〟にしかならない。このとき、信念を貫いてブレイザー監督の要求をはねつけていれば…。だが、小津社長が出した答えは「それほど監督がいうのなら」だった。(敬称略)