虎番疾風録

ブレイザー、まさかの手ぶら来日 其の参6

虎番疾風録 其の参5

昭和54年シーズンは「江川騒動」で巨人から獲得した小林が、古巣からの8勝を含む22勝を挙げ、初の「最多勝利投手賞」と2年ぶりの「沢村賞」に輝いた。西武へトレードされた田淵に代わって〝新主砲〟となった掛布も48ホーマーを放ち初の「本塁打王」を獲得。同トレードで入団した真弓、若菜、竹之内らが大きな戦力となり、夏の長期ロードの頃まで〝首位戦線〟をにぎわした。

最終的に4位で終わったものの、61勝60敗9分けの成績は、ブレイザー監督が提唱する「シンキング・ベースボール(考える野球)」が選手に浸透し始めたもの―と評価された。

「ブレイザーは野球を打つ、投げる、走るというプレーだけでなく、〝頭のスポーツ〟として捉えていた。阪神の選手たちも多くを学んだはずだ」とは、自らの野球理論「ID野球」の源流はブレイザーにある―とする野村克也の見解だった。

同年オフ、強運のドラフトで東京六大学のスラッガー岡田を獲得。あとはウイークポイントとなっていた「2番打者」「外野手」を補強するだけ。その第1候補が大リーグ・メッツのギル・フローレス外野手だった。すでにメッツと阪神との間で「譲渡」が合意。ブレイザー監督がプエルトリコで開催されるウインターリーグに行き、フローレス本人に直接会って「よろしく頼む」と約束を交わす手はずになっていた。

1月24日午後1時50分、大阪国際空港着のPAA機で、サラ夫人と4人の子供たちとともにブレイザー監督が来日した。〝朗報〟を聞こうと報道陣が殺到した。

――フローレス獲得の件は順調か

「いやぁ、それが…。ミシシッピの彼の家に電話したんだが不在だった。家の人に〝帰ってきたら折り返し連絡がほしい〟と伝えているが、まだ返事がない。本人からも2カ月間…」

――ということは、監督はフローレスに会っていないのか

「そうだ。彼の気持ちがどうなのか、さっぱり分からない。とりあえず、メッツのGMには日本の家の電話番号は伝えてきたが…」。ブレイザー監督は消え入るような声で答えた。

記者たちは驚きで開いた口が塞がらなかった。そして翌25日、スポーツ紙の1面には『ブ監督、手ぶらで来日』の大見出しが躍った。(敬称略)

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