夕食会は1時間半の予定だったが、モンゴル側のもてなしは篤く、開始2時間が経過したころに、ようやくメーンディッシュが登場。結局、河野氏が現地を後にしたのは午後9時7分で、宿舎に戻ったのは午後9時半ごろだった。
待ち構えていた記者団は、河野氏に外相会談の成果や中東情勢について質問。「日本の拉致問題についてチャンスを逃さずしっかりと解決に向けて一歩踏み出せるように努力していきたい」などの発言を記事に追加し、記者はこの日の取材を終えた。
抑留者への献花を中止
実は河野氏は16日午後、ほかにも大切な日程があった。旧ソ連に抑留され、モンゴルで亡くなった日本人の慰霊碑を訪れ、献花するはずだったのだ。
ところが慰霊碑がある市中心部から約10キロのダムバダルジャー地区は、供えた花輪が吹き飛ばされるほどの局地的な強風と雨に見舞われた。次の訪問先の教育病院とは距離があるため、天候回復を待つ余裕もなく、献花は中止となった。
旧ソ連に抑留された日本人は約60万人に上るが、そのうち、約1万4000人がモンゴルに移送され、1945年から約2年間、ウランバートルの都市建設のために労働を強いられた。過酷な労働などで約1700人が亡くなったという。
日本人抑留者が建設に携わった建物は、市内で今でも多く使用されている。日本外務省によると、これらの施設は「堅牢(けんろう)かつ丁寧につくられた」と評価され、過酷な境遇でも仕事に万全を尽くした日本人の姿勢は尊敬を集めたという。河野氏の献花は、今回の外遊でも重要度が高かったはずだ。
民間機の遅延に翻弄され
モンゴル訪問初日の15日は、午前発の直行便がなくウランバートル着が午後7時過ぎの予定だったが、航空機の離陸時間が約1時間半遅れた。現地着も必然的に遅れ、モンゴル政府との外交日程があれば影響も出ただろう。
帰国する17日は、強風など前日までの悪天候のためか、モンゴル航空便の大半に遅れが生じていた。記者が搭乗予定だった午前8時台のソウル行きは機材繰りがつかず、13時間遅れの表示が出ていた(実際には15時間遅延)。
河野氏が乗った成田空港への直行便は2時間程度の遅延で済んだが、それでも同行した外務省幹部は「帰国後の予定をいくつかキャンセルしないと…」と宿舎の出発前にぼやいていた。
民間機で移動する場合はダイヤに合わせてスケジュールを組むため、日程がタイトになりかねない。その上、天候上の理由などで機材繰りがつかなければ、訪問先での外交や帰国後の公務に影響が出るのは避けられない。もし専用機を使っていたなら15日を使うことも含めて現地日程に余裕が生まれ、献花が実現できたかもしれない。
河野氏が持論とする外相専用機は、予算面で導入はなお難しそうだが、効率的に外交を重ねる上では貴重な戦力となる。外相の海外出張に同行して実感した。
(政治部 原川貴郎)