昭和55年1月10日、寒風吹きすさぶ甲子園球場で若手の自主トレが始まった。報道陣は約100人。カメラマンたちが白い上下のトレーニングウエアを着たルーキー岡田を追いかけた。
ジョギング―柔軟体操―キャッチボール―トスバッティング。ここから新人選手たちは別メニュー。1周500メートルのグラウンドを12周。休む間もなく縄跳び300回。そして阪神名物「アルプス登り」。アルプススタンドの階段を一気に駆け上がるのだ。
「ほ、本当に毎日、こんな練習が続くんですか? 信じられない。きつい…」。頭から汗の湯気をたてて肩で息をつく岡田を、カメラマンたちは容赦なく狙った。
「11年前と同じ光景や…」と隣で目を細めたのは、筆者が「殿」と仰ぐ平本渉(わたる)先輩だった。13年生まれ。広島商3年生のとき同級生の山本一義(元ロッテ監督)とともに甲子園出場。法大野球部では胸のネームも背番号もない〝白組〟。その平本が思い出していたのは、44年のルーキー田淵幸一の姿だった。
「スマートな好青年で都会育ちの匂いを持っていた。お金持ちのボンボンでなぁ、入寮のときにはお母さんが付き添って、買い物や部屋の掃除をしてやっていた。お母さんが田淵のことを〝ボクちゃん〟と呼んだときには、みんなビックリしたよ」
岡田にはスマートさはない。松竹新喜劇の名優・藤山寛美(かんび)似のちょっととぼけた顔。そんな岡田を中西打撃コーチがひと目見て絶賛した。
「これこれ、これですよ。でかい尻、短足。実にええ体格をしとる。ボクの入団したときとそっくりや。文句なしのパンチヒッター。自画自賛やないが、短足の不細工なやつが日本人としては優れてるんだよ」
〈えらい言われようや〉27年に高松一高から西鉄に入団したときの中西は身長173センチ、体重75キロ。岡田は175センチ、76キロ。堂々とバットを立てて構え、大きな体重移動から力強く振り抜くスイング。柔軟な膝の使い。〝怪童〟中西へつながる大打者への系譜である。
当時西鉄の監督だった三原脩は、鹿児島・鴨池での春季キャンプで首脳陣の度肝を抜いた高校生ルーキーをシーズン開幕戦から「7番・三塁手」として大抜擢(ばってき)した。〈岡田はどこを守るんやろ〉ブレイザー監督の来日が待ち遠しかった。(敬称略)