ルーキー岡田が雨の大阪城公園を疾走した日から数日後の昭和55年1月7日、サンケイ新聞(当時はカタカナ表記だった)にスクープが載った。
社会面見開きの見出しは『53年夏のアベック連続蒸発 外国スパイが関与か』。そう、北朝鮮による「拉致事件」が初めて新聞記事になった瞬間である。当時は見出しにも、記事中にも「北朝鮮」や「拉致」という言葉は出てこない。書いたのは社会部の阿部雅美記者。後に東京編集局長、産経デジタル社長を歴任した大先輩である。
『富山、福井、新潟、鹿児島の海岸でナゾの連続アベック蒸発事件があり、男女6人が失踪していることが警察庁の調べで判明した。事件は富山でのアベック誘拐未遂事件を発端に明らかになったもので、発生は昭和53年夏の40日間に限られており、同庁は6日、この連続蒸発および誘拐未遂事件が同一犯人によるものと断定した』
『犯行はきわめて計画的で広域にわたるが、富山の現場に残された犯人グループの遺留品が、国内で入手不能なことや、失踪当時、現場に近い海岸でスパイ連絡用とみられる怪電波の交信が集中して傍受されていることなどから、外国情報機関が関与している疑いも強く出ている』
筆者もこの記事は見た。が、関心は「ナゾの蒸発」より「外国スパイ」という言葉に向いた。54年12月に日本公開された『007 ムーンレイカー』のボンド役、ロジャー・ムーアの格好いい姿を思い描いてしまったのだ。なんとも情けない話である。
スクープの反響はまったくなかった。後追いの報道もなく、それどころか各社から「荒唐無稽」とまで言われた。それから19年後の平成9年2月、社会部長となった阿部は新潟県の13歳、横田めぐみさんの拉致情報を入手。父親の滋さんに取材し、めぐみさんの写真入りで実名報道した。同年の「新聞協会賞」となる記事だが「なぜこの報道が協会賞なんだ」「北朝鮮の拉致疑惑は産経のでっちあげだ」と異議を唱える新聞社もあった。
日本の社会全体が「疑惑」の存在を認知し、世論が生まれたのは14年春のこと。初めての報道から実に20年以上の歳月が流れていた。「昭和」「平成」そして「令和」。産経新聞社の記者であることを〝誇り〟に思っている。(敬称略)