ブレイザー監督の辞めた本当の理由は何だろう。退団に至るまでの数カ月を振り返ってみることにした。
昭和55年、筆者の初仕事は1月4日、ルーキー岡田の〝始動〟取材だった。午後1時から大阪城公園をランニング。だが、その日は朝から雨。時折横殴りの雨が降っていた。「こんな中でほんまに走るんか?」と岡田に尋ねた。
「4日に始めると決めていたし、初めが大切。初めからつまずきたくない」
年明け、岡田に500通以上の年賀状が届いた。名前も書かないで〝阪神ファンの一人より〟と書いてあるのを見たとき、何が何でもやらなきゃ―という気持ちになったという。
「打撃も守備もすべて呼吸、タイミングが第一。これが狂うとどんな大打者でも打つことはできない。だから〝一瞬のための努力〟を怠らないことが大事なんです。スタートのタイミングは外したくない」
プロ野球の世界へ臨む気持ちのたかぶりと不安。それは筆者も同じだった。前年(54年)12月、「虎番」を拝命したとき、選手に名字(田所)ではなく名前(龍一)で呼んでもらえる記者になろう―と〝誓い〟をたてた。それにはまず選手に名前を覚えてもらうことから。当時、産経新聞社には〝伝説〟があった。昔、ある大先輩記者が1年生のとき、配属された神戸支局で名前の書いたタスキを掛けて1年間、所轄の警察を回ったという。
これや!〈けどタスキはなぁ〉そこで、名札を作ることにした。名前の書いた紙を挟むような安っぽい物ではダメ。しっかりとしたネームプレート、しかも目立って、見た人が1年生と分かるような…〈そうや、若葉マークや〉。さっそく、大阪・梅田の阪神百貨店で発注した。2週間ほどで大きさ5センチ、緑と黄で色分けされ「サンスポ・田所」とネームの入ったプラスチック製のプレートが完成。費用5千円。この日の岡田取材も上着の胸ポケットのところにしっかりと付けていた。
「若葉マーク」作戦は成功した。コーチや選手に一発で名字を覚えてもらえた。小林や若菜、竹之内らベテラン選手たちはおもしろがって、しばらく筆者を「おい、初心者マーク」と呼んだ。仲良くなると名前へ。小林ら年上の選手や同い年の掛布は「龍一」と呼び捨て。岡田や平田ら年下の選手は「龍さん」。「田所」と呼ぶ選手はいなくなった。(敬称略)