「知の金字塔」と呼ぶにふさわしい快挙だ。将棋の羽生善治九段が史上最多となる通算1434勝を挙げ、故大山康晴十五世名人の記録を27年ぶりに塗り替えた。
15歳でのデビューから33年、48歳8カ月での達成は、プロ入りから52年かけて白星を積み上げた大山名人の69歳3カ月より格段に速い。
「6割勝てば一流」といわれる世界で、7割を超える通算勝率は驚異的だ。タイトル獲得も通算99期で、前人未到の100期まであと1つに迫っている。
常勝と勤続の両立は、突出した才能だけではできない。記録達成後の記者会見で、羽生九段は「まず修正と反省。それが終わったらきれいに忘れて次に臨む」と語った。最多勝利の裏側で、600近い敗北を味わっている。甘美な成功体験も敗戦の痛みも後に引きずらないことが、次の一歩を踏み出す上で大事だという。人生万般に通じる教訓だろう。
「1局指せば、新しい発見がある。それがモチベーションの一つになっている」とも述べていた。一つのことに変わらぬ情熱を注ぎ続けてこそ、成し遂げられた偉業とも言えないか。羽生九段にとって近年は逆風が続く。昨年は3つのタイトルを全て失い、27年ぶりに無冠となった。勝率も平成28年度から3年続けて5割台だ。
5月に名人位を獲得し、3冠となった29歳の豊島将之棋聖をはじめ、若手は人工知能(AI)搭載の将棋ソフトを活用した研究で続々と台頭している。羽生九段といえども、タイトル戦の舞台に立つのは簡単ではない。
ソフトの進歩で戦術も複雑になった。羽生九段は「非常に難度の高い局面、間違いやすい局面に出合うことが多くなった」と語る。現代の知性を代表する人も、われわれと変わらぬ悩みを抱えて生きている。その苦境を情熱の火だねにする姿勢は、やがて人生100年時代を迎える中高年世代にとって最良の模範となるはずだ。
前例や経験が役に立たない場面は人生に必ずある。「いいときでも油断せず、悪いときも最善を尽くしてチャンスを待つ姿勢が大事だ」と羽生九段は言う。未知の局面でどう対処するかが、人間に求められる真価だろう。「運命は勇者に微笑(ほほえ)む」は羽生九段の信条だという。迷ったら一歩前に。偉業はそう教えてくれる。