近畿大学の歴史は、大正14年に日本大学の分校の形で開校した前身の日本大学専門学校にさかのぼる。
当時、大阪は2年前の関東大震災の影響や周辺郡部の編入を経て人口200万人を上回る日本最大の都市で、「大大阪(だいおおさか)」と呼ばれていた。後に日本大学大阪専門学校、大阪専門学校へと改称し、昭和18年には大阪理工科大学を併設したが、それがもとで大専騒動と呼ばれる学園紛争が勃発した。
「大専騒動史」(永井次勝著、近大出版印刷局)によると、18年に大専の発展に手腕を発揮した当時の校長が大阪理工科大の設立認可の手続きで世話になった文部省担当者に感謝の中元を贈ったのが、検察から贈賄行為と判断されたことに端を発する。
この校長は、検察の判断を不当として争う姿勢をみせたが、日大出身の幹部教員らが反校長派となって対立。校長側が招いた校長代理や教職員、学生も入り乱れる大騒動に発展した。暴行事件が横行。日本刀や短刀、短銃も持ち出され、授業がボイコットされるなど収拾不能に。特に軍部が配属将校を引き揚げ、廃校の瀬戸際に追い込まれた。戦前は必須科目だった軍事教練を担う配属将校が引き揚げると、文部省は廃校にするしかなかったからだ。
ここで大専は日大に支援を求めた。日大総長の山岡萬之助は何人かの腹心を送り込んだが、ことごとく失敗。翌19年2月に山岡も日大理事だった世耕弘一を連れて大阪に来たが、手の施しようがなかった。
「自分の代理として大阪に残って解決に努力してもらえないだろうか」
やむなく東京に戻る山岡は大阪駅で相談すると、弘一はこう答えた。
「自信は持てないけれど、総長の苦衷(くちゅう)も了解できるからとどまって対処してみましょう」