数々のヒット映画をプロデュースしてきた川村元気さん(40)の2年半ぶりの長編小説『百花』(文芸春秋)は、認知症の母とその息子の交流を軸にした切なくも美しい「記憶」の物語。65歳以上の7人に1人が認知症患者という高齢化社会の現実を直視しながら、一つの幸福の形を描いている。
大みそかに実家に帰った38歳の葛西泉。すると、夕食の支度をしているはずの母は家を空け、夜の公園で一人ブランコに揺られていた。几帳面(きちょうめん)だったのに、汚れた食器を台所に放置して…。やがて認知症と診断された母は、一人息子の泉のことすらも少しずつ忘れていく。母を介護しながら思い出をたぐり寄せる泉は、長く2人の心のしこりとなっている過去のある事件とも向き合う。
数年前、川村さんの祖母も認知症に。そのときの戸惑いが出発点になったという。「久しぶりに会ったときに『あなた誰?』って言われて…。記憶がなくなれば『自分』というものは危うくなる。それから僕は祖母に思い出を片っ端から話しかけていったんです」
記憶を失う母と語り合うなかで、泉は自分が多くの思い出を忘れてしまっていることに気づかされる。細かな事実は忘れても、〈誰と一緒に見て、どんな気持ちになったのかは思い出として残る〉。そう話していた母のさささやかな日常の記憶が導く、物語の最後の情景が印象深い。「僕たちは記憶をこぼさないように携帯に写真や人の名前をあふれるほど入れているけれど、実は何が大事かすらも分からなくなっている。でも、いろんなことを忘れていった僕の祖母は本人がすがりつきたい大事な思い出はすごく覚えていた。それが、とてもうらやましく感じたんです」
そんな実感がシンプルな題名に流れこむ。「花や花火って、枯れたり消えたりするからこそ咲く瞬間は美しい。忘れてしまったもの、失われていく記憶がその人の個性を作り、幸福の形をくっきりさせることだってある」
小説は4作目。ベストセラーとなった第1作『世界から猫が消えたなら』(平成24年)は欧米でも翻訳出版された。執筆前は対象を綿密に取材する。今回も100人を超える認知症患者に会った。「世の中で顕在化していない不安に気づくのも小説家の仕事」だと思うからだ。
「自分にとって切実なものは、世界にとっても切実だと思いたい。自分の体験とどこか深いところで重なったと感じてもらえたら、うれしい」
(文化部 海老沢類)
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かわむら・げんき 昭和54年、横浜生まれ。上智大文学部新聞学科卒。「電車男」「告白」「君の名は。」などの映画製作に携る。平成23年、優れた映画製作者に贈られる藤本賞を史上最年少で受賞。ほかの小説に『億男』『四月になれば彼女は』など。