井上靖は昭和後期を代表する作家だ。豊かな物語性と奥行きのある詩情で多くの読者に愛される人気作家だが、それだけではない。ニヒリズムの深さも、人間観察の鋭さも、上品なユーモアも、確かな文章も、実に魅力的で、国民作家と呼ぶのにふさわしい大きな存在だと私は考えている。
この本には、そんな井上が文学修業時代に書いたものの発表に至らなかった小説6編と戯曲1編を収録している。
井上は20代の半ばごろから懸賞小説に応募しており、既発表作品は全集に収められている。しかし、日の目を見なかった作品も多い。雌伏の時代の模索がうかがえて、興味深い一冊になっている。
全体はユーモア小説、探偵小説、時代小説、戯曲の4部から成っている。
ユーモア小説では、会社員や大学生たちの群像がこなれた会話と軽快な筆致で描かれている。偶然が起伏の多いストーリーを動かすのだが、そんな人間模様の中で、どこかしたたかな人物像が楽しめる。読者を妙に勇気づけてくれるのが井上文学の特質だ。
探偵小説では、すれ違いに終わる恋愛を冷めた視点で描いている。作家が現代における愛の可能性を見つめ続けたことを思い出す。
時代小説は元寇という日本の危機における武士群像を描いて、歴史とは何かと問いかける。時代を鳥瞰(ちょうかん)するような広い視野と、登場人物の息づかいが聞こえてきそうな描写はすでにその萌芽(ほうが)が見られる。「敦煌」や「天平の甍(いらか)」などの名作群がダイナミックな歴史の展開とその中をさまよう人物像を描いていたことを連想させる。
一つだけ収められた戯曲は、戦時下の緊張した空気、および敗戦後の空虚な思いの中で、2組の夫婦の関係が問われている。井上のニヒリズムの根っこに幼年時代の経験とともに、敗戦体験や新聞記者経験があるというのが私の考えだが、ここでも愛の行方を追う作家の視線はあくまで冷静だ。
後の華々しい活躍を思いながら、その予兆のあれこれを楽しめる。井上文学の愛読者には、ありがたい出版だ。(七月社・2400円+税)
評・重里徹也(文芸評論家、聖徳大教授)