草間弥生も佐渡裕も学んだ京都市芸大 設立に明治の絵師

明治後期の授業風景。芸術界だけでなく、産業界にも逸材を送り込んだ(京都市立芸術大学「百年史」から)
明治後期の授業風景。芸術界だけでなく、産業界にも逸材を送り込んだ(京都市立芸術大学「百年史」から)

 令和(れいわ)5(2023)年、JR京都駅近くへの移転を控える「市芸」こと、京都市立芸術大学(京都市西京区)。逸材を輩出し続ける芸術界の殿堂は、明治13(1880)年設立の画学校が起源で、国内にある公立芸術系大学としては最も長い歴史を持つ。学校設立のきっかけは幕末から明治にかけて京都が直面した危機にある。やがて学校は京都復興とともに存在感を高め、芸術界を支える屋台骨となる。(渡部圭介)

芸術界の苦境

 京都御苑(京都市上京区)内の京都迎賓館が建つ北側の一角。ここで明治13年7月、京都市立芸術大学の源流である「京都府画学校」は産声を上げた。

 日本画家で第1回文化勲章受章者、竹内栖鳳(せいほう)もこの学校で学び、後進の指導にも当たった。文化都市を標榜(ひょうぼう)する今の京都から見れば、「京都らしい」学校に映るかもしれない。

 当時、京都の芸術界を取り巻く環境は厳しかった。元治(げんじ)元(1864)年、幕府側と長州藩による市街地戦(禁門の変)に端を発した戦火は市中を覆い、約2万7千件の家屋が焼失した。政治的混乱で復興も進まないまま、幕府は消滅。明治新政府の発足とともに首都の座は東京に移り、京都市域の人口は35万人から20万人あまりに激減したとされる。

 打撃を受けたのが絵師たちだ。京都は朝廷や公家など有力者の仕事を請け負う絵師のほか、数多くの町絵師を抱えていたが、人口減と経済低迷で絵の買い手がなくなったのだ。

 「染色の図案や測量図面を描いて、日銭を稼ぐ絵師もいたようです」。京都市立芸術大学芸術資料館学芸員の松尾芳樹さんはそう話す。画学校の設立には、京都の芸術界の存亡がかかっていたのだ。

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