通常は、まず私が存在し、私の意識がさまざまな経験をすると考える。ところが、西田は最初に経験があると考えるのだ。ここでいう経験とは、たとえば夕日を目にして「はっ」と感じた刹那の、私の判断がまだ何も働いていない、主観と客観がひとつとなった状態の経験だ。これを純粋経験という。これを核にして「美しい」とか「懐かしい」とか感じる私の意識が生じる。西田は愛も、私と他者がひとつになる純粋経験だという。純粋経験とは、客体への共感・共鳴と言い換えることができるだろう。共感・共鳴から人間の意識は生まれ発展してゆくのだ。
京都帝大で西田の指導を仰いだ小原国芳(おばら・くによし)が創設した玉川大学で『善の研究』を講じている佐久間裕之教授は、「主客、自他といった二元論的発想の呪縛から私たちを解き放ち、他者といかに切り結んでゆくか、という発想に導いてくれる」と本書の価値を説明する。
ところで、本書のタイトルである『善の研究』の「善」とは何を意味するのだろう。西田はこう書いている。《善とは自己の発展完成である》。宇宙はあるひとつのものから分かれて発展し、大いなる統一に向かって変化を続けていると考える西田によれば、この法則に従うことこそが善であり、それは純粋経験(共感・共鳴)においてこそ実現されるというのである。
佐久間教授はこう強調する。「世界を見る前提や常識を問い直すと、世界や人間の新たな可能性が発見できるかもしれない。そのことを『善の研究』は思考の過程を見せながら教えてくれます。若い人にぜひチャレンジしてほしい」
昭和25年刊行の岩波文庫版は売れ続け、これまでに123万部を発行している。「自分とは何者か」「いかに生きるべきか」という問いは、時代は変われど生き続けている。(桑原聡)=おわり
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次回は4月1日、番外編の『蹇蹇(けんけん)録』(陸奥宗光)です。
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【プロフィル】西田幾多郎
にしだ・きたろう 明治3(1870)年、加賀国河北郡(現石川県かほく市)生まれ。第四高等中学校中退、帝国大学哲学科選科を卒業。山口高、四高、学習院の教授をへて43年に京都帝大助教授、3年後に教授。西洋の借り物ではない独自の哲学を打ち立てる。四高の同級生だった仏教哲学者の鈴木大拙とは終生交流を続け、後に哲学者となる西谷啓治、三木清、下村寅太郎らを指導。昭和20年6月死去。