明治の50冊

(50)西田幾多郎『善の研究』 苦悩する旧制高生必読の書

【明治の50冊】(50)西田幾多郎『善の研究』 苦悩する旧制高生必読の書
【明治の50冊】(50)西田幾多郎『善の研究』 苦悩する旧制高生必読の書
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 『善の研究』は明治44(1911)年、弘道館という出版社から刊行された。西田幾多郎は40歳。元となったのは第四高等学校教授時代にしたためた講義草稿や雑誌論文で、「純粋経験」「実在」「善」「宗教」の4編からなる。

 刊行前年に西田は京都帝大助教授となっていたものの、まだ無名の哲学徒の著作は注目されることもなく、ほどなく絶版となった。ところが、戯曲『出家とその弟子』で一躍脚光を浴びた倉田百三が大正10年に発表した哲学的人生論『愛と認識との出発』で『善の研究』を絶賛する。同書は12年に岩波書店から復刊され、哲学者、阿部次郎の『三太郎の日記』とともに、倉田と同様の苦悩を抱えていた旧制高校生にとって必読の書となるのである。

 急速な近代化は、階級問題をはじめとするさまざまなひずみを生み出した。エリート青年たちの関心は国家から自分の内面へと向けられ、自分とは何者か、いかに生きるべきかといった哲学的苦悩にさいなまれるようになった。一高生の藤村操(みさお)が《萬有(ばんゆう)の眞相は唯(た)だ一言にして悉(つく)す、曰(いわ)く、「不可解」》との言葉を遺(のこ)して華厳の滝に身を投じたのは明治36年のことだ。

 仏哲学者、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」に端を発する考え方を極端に突き詰めたともいえる独我論(この世界に実在するのは自己とその意識内容だけで、他我や事物は自己の意識内容にすぎない)の孤独な檻の中でもがいていた倉田は、同書序文の一節《個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである、個人的区別よりも経験が根本的であるという考から独我論を脱することが出来…》を目にしたときの衝撃をこう記している。《私は心臓の鼓動が止まるかと思った。私は喜びでもない悲しみでもない一種の静的な緊張に胸がいっぱいになって、それから先きがどうしても読めなかった。私は書物を閉じて机の前にじっと坐(すわ)っていた。涙がひとりでに頬を伝わった》

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