還暦の少年週刊まんが誌 サンデー・マガジンの草創期

(6)赤塚不二夫の合議・分業制 腕利き抱えヒット量産

【還暦の少年週刊まんが誌 サンデー・マガジンの草創期】(6)赤塚不二夫の合議・分業制 腕利き抱えヒット量産
【還暦の少年週刊まんが誌 サンデー・マガジンの草創期】(6)赤塚不二夫の合議・分業制 腕利き抱えヒット量産
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 「天才バカボン」「おそ松くん」などで一世を風靡(ふうび)したギャグ漫画の巨匠、赤塚不二夫(平成20年、72歳で死去)は、「週刊化の申し子」とも言える。昭和30年代から40年代にかけ、週刊誌だけでも、何本もの連載を描きまくり、読者を虜(とりこ)にした。クオリティを保ちながら驚異的な量産を可能にしたのが、赤塚とスタッフ、編集者らによる独特の「合議・分業制」とも呼べる画期的な共同作業システムだった。漫画家1人だけなら、絵もアイデアも限界があり、時間もかかる。だけど、みんなでやれば…という発想だ。

 古谷三敏(ふるや・みつとし)、長谷(ながたに)邦夫、高井研一郎、北見けんいち、とりいかずよし、横山孝雄…赤塚率いる「フジオ・プロ」(40年設立)には、漫画家やアシスタントが多数所属し、後に多くが一本立ちしてデビューを果たしている。赤塚は自叙伝『笑わずに生きるなんて』で彼らのことを、《自分でも作品を発表している、単なる助手ではない、一クセも二クセもある男たちだ》と書いた。

 37年から少年サンデーで連載が始まった「おそ松くん」には、主人公の6つ子のほかに、シェーのイヤミやチビ太、デカパン、ハタ坊など、魅力的なキャラクターが多数登場するが、そのいくつかは、後に「総務部総務課山口六平太」でヒットを飛ばす高井の手によって生まれている。イヤミやデカパンのモデルは、当時のサンデー編集者だったという。アイデア会議にはスタッフのほかに担当編集者も参加。時にはライバル誌の編集者まで加わったというから破天荒極まりない。

 39年から赤塚のアシスタントを務めた「釣りバカ日誌」の北見けんいち(78)は、「キャラは、高井さん、アイデアは、古谷さんや長谷さんに負うところが大きかったと思う。みんな仲良しだったし、『著作権』なんて言い出す人もいない。これも、赤塚先生の人柄でしょうね」。彼らは仕事も遊びも一緒、それもとことんやる。「おそ松くん」を担当した元サンデー編集部の並木孝(あつし)(80)は、「飲めなかった赤塚さんに酒を教えたのは私かもしれません。当時は忙しすぎて休んだ記憶がないくらいだけど、毎日が楽しかったなぁ」と懐かしむ。

 赤塚門下ほど人気漫画家が育った例は他にないが、やがて赤塚はジレンマに苦しむことになる。ギャグ漫画家として頂点を極めた全盛期は40年代。50年代以降は、あまりヒット作に恵まれず、漫画よりもタレント活動に熱心だったり、アルコール中毒になって、入退院を繰り返すことに。こうした事態を招いたことも、有能なスタッフが次々と巣立って行ったことと無関係ではない。北見は言う。「古谷さんや高井さんが抜けて(赤塚は)だんだん描けなくなっていった。モヤモヤやイライラもあってお酒に走るようになったんじゃないかな。赤塚先生は人の良いところを吸収して決断を下す、構成力に優れたプロデューサーだったんですよ」=敬称略、隔週木曜日掲載(喜多由浩)

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