近鉄-広島の日本シリーズ。3勝3敗で迎えた第7戦は11月4日、大阪球場で行われた。翌昭和55年「Number」(文芸春秋)創刊号に掲載されたノンフィクション作家、山際淳司の『江夏の21球』で一躍注目されたあの一戦である。
その日、筆者はネット裏記者席の最前列に座っていた。回を追うごとに近鉄担当記者たちが後ろの席へ移動していく。見ると皆、下を向いている。感極まり、直視できない状態だったのだ。そんな中でドラマが展開された。
1点を追う近鉄、九回裏の攻撃。(1)先頭の羽田が中前打で出塁(2)羽田の代走藤瀬が二盗。水沼の送球を高橋慶が後逸し藤瀬は三塁へ(3)アーノルド四球。代走吹石が二盗(4)平野が敬遠の四球で無死満塁(5)山口の代打佐々木が空振り三振(6)一番石渡が1ストライク後の2球目をスクイズ。この構えを見た江夏がカーブの握りのままウエスト。三塁走者藤瀬が三本間で挟殺(7)石渡が空振り三振。マウンドに走ってきた水沼に江夏がジャンプして抱きついた。
◇11月4日 第7戦・大阪球場
広島 101 002 000=4
近鉄 000 021 000=3
勝 山根 敗 柳田 S 江夏
本 平野(1)(山根)水沼(1)(柳田)
〈なにしてんねん〉江夏の凄(すご)さより近鉄が情けなかった。石渡への一球もバットを投げ出せば、けっして当てられないウエストではなかった。というより、なぜスクイズなのか―。西本監督は試合後「あれもひとつの方法やと思う。タイにしてランナーが残れば…」としょんぼりと振り返った。
虎番記者となった筆者は60年、こんなケースに遭遇した。5月15日の大洋戦(甲子園)。同点で迎えた延長十一回、阪神は無死一、二塁のチャンスをつかんだ。打者は2番北村。送りバントを予想した。送れば1死二、三塁でバース。仮にバースが敬遠されても満塁で掛布との勝負。大洋ベンチも内野陣を入れ替えてバントに備えた。ところが吉田監督の采配は「強攻」。これが右前安打となり、無死満塁からバースが楽々と犠飛を打ち上げてサヨナラ勝ちをおさめた。
「首脳陣は選手に難しいことをやらせるんやのうて、楽にできることをやらせなアカンのです。あの場面、北村がバントするより打つほうが確率が高いと判断したんですわ」。吉田阪神はその年「日本一」になった。(敬称略)