昭和54年10月16日、西本監督率いる近鉄は、後期を制した梶本阪急とのプレーオフ、1、2戦と連勝し第3戦に臨んだ。もちろん筆者も西宮球場にいた。
◇10月16日 第3戦・西宮球場
近鉄 001 000 000 1=2
阪急 000 001 000 0=1
(勝)山口 (敗)稲葉 (本)福本(1)(村田)
延長十回、近鉄は先頭の梨田が中前打。吹石のバントが投手稲葉の野選を誘い無死一、二塁。石渡の送りバント、永尾の四球で1死満塁とすると阪急は山田をリリーフに投入。2死となり続く小川の当たりは平凡な遊ゴロ。が、この打球を井上が弾(はじ)き決勝点を奪った。午後4時52分、阪急最後の打者簑田が三振。球団創立30年目で初のリーグ優勝が決まると、一、三塁側の両方のスタンドから5色のテープが投げ込まれ、ファンが総立ちとなって西本監督をたたえた。
「長い間、辛抱してその瞬間を待ってくださった皆さん、ありがとう! 阪急城を崩すのは長いつらい道のりでしたが、やっと実現させることができました」。西本は深々と頭を下げた。
24年オフに「パールス」の愛称で誕生した近鉄はとにかく弱かった。37年に「バファローズ」になっても万年Bクラス。30年代から40年代前半はオープン戦の日程が決まるのも毎年最後。他球団のスケジュールを聞き、空いている日に頼み込んで試合を入れてもらっていたという。地方でゲームを主催する際も興行主から「商売にならん」と買ってもらえず、「赤字が出たときには球団が負担しますから」という条件でやっと開催にこぎつけた。
先輩記者によれば「開幕前に近鉄と試合して負けると、シーズンに入ってしばらくショックが尾を引き、調子が狂う―と言われて、敬遠されとった」という。そんな近鉄が43年に知将・三原監督を招聘(しょうへい)してから徐々に変わり始める。44年秋のドラフトでは太田幸司(三沢高)を指名し球団の人気も急上昇。そして48年オフに阪急の監督を勇退したばかりの西本を招いたのである。当時の西本監督の口癖は「砂漠に城を建てるようなもんや」だったという。それから6年、見事に城は建った。
午後8時、筆者は日生球場で行われた狂騒の祝賀会で初めてビールを頭から浴びた。毛穴から入ったアルコールでたちまち悪酔い。ちゃんと原稿が書けたのだろうか…いまだに記憶がない。(敬称略)