昭和54年8月-夏、「第61回全国高校野球選手権大会」が開幕した。朝、選手宿舎に行って「病気になった選手はいませんか?」の声かけから取材が始まる。
球場では先輩記者の手伝い。「おい、ホームランを打ったこの選手のお母さんの話を聞いてこい」「どこにいてはるんですか?」「アルプススタンドに決まっとるやろ!」と怒鳴られた。
超満員のスタンド。なかなか見つけられない。そこで一計を案じ、前の試合で負けた応援団から大きなうちわをもらった。大きな白紙を貼ってマジックで「○○選手のお母さんどこですか?」と書く。それを持ってスタンドに行き、大声で叫ぶのだ。すると「ここで~す!」。この作戦は結構うまくいった。
8月16日、筆者は第4試合の「負けチーム」の担当を命じられた。あの球史に残る大熱戦を演じた箕島(和歌山)-星稜(石川)の一戦である。
◇8月16日・第4試合(3回戦)
星稜000100000001000100=3
箕島000100000001000101×=4
(延長十八回、3時間50分)
延長十二回、星稜が敵失で1点を奪った。その裏、箕島の攻撃も2死走者なし。打者嶋田が尾藤監督に「ホームランを打ってきます」と宣言して打席に-。そして2球目を左翼ラッキーゾーンへ同点ホームラン。奇跡は続いた。十六回だ。星稜が再び1点を奪うとその裏、2死走者なしで箕島・森川の打球は一塁右へのファウルフライ。万事休すか…と誰もが思ったそのとき、星稜の一塁手が土と人工芝の切れ目に足を取られて転倒。その生き返った森川が今度は左中間へ同点ホームラン。〈こんなことがあるんや…〉鳥肌が立った。
試合は延長十八回、箕島がサヨナラで勝った。だが、そこには勝者も敗者もなかった。「両軍の選手を褒めてやってください。すばらしかったじゃありませんか」と、お立ち台の箕島・尾藤監督の唇が小刻みに震えていた。
次の日、筆者は甲子園球場の運動具店ブースの前で星稜・山下監督を見つけた。両腕に大きなボールを抱えていた。「それは?」と尋ねると「きのうの試合に感動したもんだから、記念に選手のサインをもらおうと思ってね。ひとつはこれから箕島高校の宿舎に持っていくんだよ」。翌日の紙面にその小さな記事が載った。(敬称略)