話の肖像画

元警視総監・池田克彦(66)(2)暴力団事務所で「初訓示」

(寺河内美奈撮影)
(寺河内美奈撮影)

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〈昭和28年2月、神戸市で生まれた。父は伯父が社長の紡績会社で役員に就いていた〉

神戸のど真ん中にある広い屋敷に住んでいて、お手伝いさんも何人かいました。しかし3、4歳ぐらいのころに会社が人手に渡り、人生が一気に変わったのを覚えています。父は神戸の外れに家を買い、パン屋を始めました。

父は浮き沈みの大きい人生を送る中で、これからの時代は教育が一番大事だと考えたようです。決して豊かではないですけども、私立の中高に行かせてもらいました。会社を手放すとき、銀行にいじめられたみたいで、よく「弱いものがいじめられないように、大学の法学部に行って役人になれ」と言っていました。

私自身は中高のころは文学が好きで、児童文学を学びたいと思って、46年に京大文学部に入りました。しかし「文学では将来の設計が立たない」と考えるようになり、父の思いもあって、47年に法学部に転部しました。

学生運動が続き、教室がバリケードで封鎖されたことがありました。授業料値上げ反対闘争もあり、私が事務室で授業料を払おうとしたら数人に囲まれました。「闘争をやっている。あんたの行動がみんなを不幸にする」と言われ、その場で払わせてもらえなかったんです。

腕力を持った人間がわが物顔で歩き、好き勝手にやっている状況に疑問を持っているとき、パスカルの本を読みました。「正義なき力は暴力。力なき正義は無効」という言葉に、「まさにこの通りではないか」と感じました。国家公務員試験を受けるころには、警察庁を志望するようになっていました。

〈51年に警察庁入庁。54年に初めての所属長として群馬県警捜査2課長に就任した。当時26歳だった〉

着任当日、「訓示をお願いします」と言われましたが、20歳過ぎのあんちゃんが訓示をしていいものかと、気兼ねがありました。「青二才が訓示などとてもできません」と遠慮し、自己紹介と挨拶だけをしましたが、しばらくして訓示の機会がやってくることになります。

暴力団情勢の説明を受けた後、暴力団事務所視察に出たときのことでした。外から見ていると、普通の中年の女性が出てきて近所の人と談笑しているのですが、課長補佐が「組長の嫁さんで背中に入れ墨があります」と言うんです。「へー、分からんもんだね」と話し、少し近づいていったら組長にバッタリ会い、「中も見ていきな」と言われました。

事務所内は工務店みたいな感じでしたがホワイトボードに「公判」と書かれ、「結構捕まっているんだな」と思いましたね。そうしたら急に組長が、「うちの若いやつもいるから課長に訓示してもらおうや」と言い出し、課員たちもお手並み拝見みたいな感じで見てきました。

「嫌だ」と言ったら逃げている感じになるので、「分かった」と初めての訓示をしました。「汗水たらして働くことが一番大事」と当たり前の内容になってしまいましたが、現場で判断を迫られたとき、逃げなかったことが一つの自信になりました。(聞き手 高久清史)

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