例えば、倒幕の企てが露見して京都を脱出する際の天皇を『太平記』は女房車(ぐるま)、怪しげなる張輿(はりごし)を乗り継いだと書き、笠置山が陥落すると〈歩跣(かちはだし)なる体(てい)にて、いづくを指すともなく、足に任せて落ち給ふ〉。
後に流された隠岐を脱出する時には〈自ら玉趾(ぎょくし)を草鞋(そうあい)の塵に汚して、自ら泥土(でいど)の地を踏〉んだ
「地に足を着けるといった行為は従来の天皇にはあり得ない状況だが、そのありさまは敗残のイメージというより異様な生命力にあふれた存在として表現されている」
盤石に見えた幕府を倒そうとした天皇の周囲に集まったのは、正成にしても伯耆(ほうき)(鳥取県)の名和長年(なわながとし)にしても、鎌倉幕府の体制下では主流と言い難い人物が多かった。
「従来の秩序におさまらない人間たちを受け入れる気質が後醍醐天皇にはあった。正成たちもそんな後醍醐天皇を通して、鎌倉幕府後の社会を思い描いていたのかもしれません」
神田教授はそう推論する。=毎週金曜掲載
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序章では、楠木正成が日本史の中でどんな評価を受けてきたか、特に明治維新以降、昭和20年を境にその評価が一変した事情を書いてきた。第1章では正成が史上、実際にどんな働きをし、どんな思想を持っていたか、『太平記』を中心とした史書から読み解いていきたい。