日本人の心 楠木正成を読み解く

第1章 時代を駆け抜けた5年間(1)

 〈未(いま)だ名ある武士の、手勢(てぜい)百騎、二百騎とも打たせる大名は、一人も参らず。この勢ばかりにては、皇居の警固いかがあるべからんと、主上(しゅしょう)、思(おぼ)し召(め)し煩(わずら)はせ給ひて〉

 『太平記』は、笠置山に臨幸した後醍醐天皇の心中をそう書く。万余の幕府勢が迫る中、百単位の武士団さえ駆け付けない様は不安この上なかろう。そこで見た夢では、常磐木(ときわぎ)(常緑の木)の南に広がる枝が勢いよく栄えていた。夢で2人の童子が言う。

 「天下の間に、暫くも御身を隠さるべき所なし。但し、かの木の陰に、南へ向かへる座席あり」

 夢から覚めた天皇は「木」と「南」という言葉を結びつけ「楠」と解釈。笠置寺の衆徒から「河内国金剛山(こんごうせん)の麓(ふもと)に、楠多聞兵衛(たもんびょうえ)正成とて、弓矢取つて名を得たる者は候ふなれ」と聞かされると、すぐに正成を笠置に召した。

 笠置に参陣した正成は、天皇の問いに答え、正成にとって一世一代の言葉を言上する。

 〈正成未だ生きてありと聞こし召し候はば、聖運はつひに開かるべしと思し召し候へ〉(正成が生きているとお聞きになったならば、天皇のご運は必ず開けるとお考えください)

 堂々たる自信に満ちた正成の言葉は、果たして何の成算もない「大言」だったのか。南北朝時代に成立したとされる歴史物語『増鏡(ますかがみ)』には、天皇と正成が笠置で出会う以前から気脈を通じていたことをうかがわせる記述がある。

 〈笠置殿(後醍醐天皇)には(中略)事のはじめより頼み思されたりし楠の木兵衞正成といふ物あり〉

 また、正成は笠置が危うくなった場合に備え、河内の館の備えを固め、天皇を迎え入れる準備をしていたと『増鏡』は伝える。正成は緒戦の不利をも想定し、周到な準備のもとに戦いに臨もうとしていたのだ。

 天皇に拝謁した正成は、ただちに笠置を出発し、金剛山の麓の下赤坂城に入り、兵を挙げた。

 笠置以来、正成が一貫して忠義を尽くした後醍醐天皇について、学習院大の神田龍身(たつみ)教授はこう語る。

 「宮中奥深くに鎮座する不可視の存在という天皇のイメージと正反対の描かれ方をしているのが後醍醐天皇です」

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