世耕弘一が衆議院総選挙に初当選した昭和7年には青年将校らが当時の犬養毅首相を暗殺した五・一五事件が起き、以降、日本は全体主義に向かっていく。
9年3月発行の政友会の機関紙「政友」に、第65回帝国議会(8年12月26日~9年3月25日)の閉会後に所属議員の感想を集めた記事が掲載されており、弘一は「不愉快な議會(ぎかい)」と題して一文を寄せている。
「今議會は全く不愉快な議會であつたと思ひます。只(ただ)面目ない議會であつたと御詫(ごたく)する外(ほか)にありませぬ。この上は立憲政治確立のため全力を盡(つ)す覺悟(かくご)を致します」
9年7月に海軍大将、岡田啓介を首相とする内閣が成立すると、弘一は、同年9月刊行の「政友」で「岡田風船玉内閣」として、その政策を批判する論文を発表している。
〈全く岡田内閣には中心がなく指導精●(=示へんに申)(せいしん)がなく、風船玉の風に漂ふ如くである。非常時を擔當(たんとう)するにはあまりにも心細い。現下の農村地方の諸對策(たいさく)、並に對外(たいがい)政策、全く其の場その場の彌縫(びほう)策あるのみ〉
10年12月刊行の「政友」には岡田内閣の外交を批判する論文も発表している。
〈時々思ひ出した様に外交聲明(せいめい)を出してゐるが、(中略)事なかれ主義と自己保身術を主眼とする所謂官僚一流の所論に基づく聲明であつて、その聲明の多くは内外の物笑ひの種となつてゐる〉
その後、弘一は11年2月に行われた衆議院総選挙では次点に泣いたが、続く12年4月の衆議院総選挙で再び議席を得ている。12年に日独伊三国防共協定が締結され、翌13年には国家総動員法が制定されるなど戦時体制が整えられていった。
弘一は13年12月刊行の「政友」で戦時体制構築の中心だった企画院を批判する論文「企畫(きかく)院の思想?」を発表している。
〈國民(こくみん)の死活問題に關(かん)する重大法案が立案されるのに拘わらず一向國民の意をくむに努力せず極めて短期間に作製發布(はっぷ)されるのである。依てそこに愼重なる議會(ぎかい)の審議すら許さないのである。全く獨斷(どくだん)専行で然も獨善主義である。あたかも封建時代の幕府のおふれと少しも變(かわ)りはない感じを國民に與(あた)へる虞(おそれ)がある〉
弘一は国民生活に大きく関わる重大法案が民意をくむことなく独断で決められることを批判し、社会主義に向かう危険性をも指摘した。
〈企畫院の採りつゝある態度は日本の資本主義の強化でなくて資本主義の修正に一歩を踏み出してゐる。即ち資本主義の修正は●(=示へんに土)會主義の前提となることを虞(おそ)れさせる〉
ただ、弘一の論戦もむなしく戦時体制の強まりとともに政党政治が行き詰まりを見せていく。(松岡達郎)=敬称略