平成の文化施設はこうして生まれた

九州国立博物館(5) 収蔵庫造り、業界の常識に穴

九州国立博物館で修復された「細川家舟屋形」の天井画(公益財団法人永青文庫所蔵、熊本博物館提供)
九州国立博物館で修復された「細川家舟屋形」の天井画(公益財団法人永青文庫所蔵、熊本博物館提供)

 「九博は21世紀にできる博物館です。新しい博物館のポリシーに反します」

 平成15年4月。九州国立博物館(九博)準備室の保存修復主幹、本田光子(67)は、準備室長の三輪嘉六(80)に、燻蒸(くんじょう)の中止を訴えた。博物館業界の「常識」への挑戦だった。

 博物館の第一の役割は、美術品や出土品の保存だ。その役割を果たす収蔵庫は、博物館の「心臓部」といわれる。

 日本では、収蔵庫の壁や天井に材木を使うことが多い。温度や湿度の急変で宝物が傷まないように、木が持つ温度・湿度の調整機能を活用する。1200年前の正倉院から続く、日本の知恵といえる。

 半面、材木にはシロアリなどの害虫やカビといった文化財の天敵が潜む。虫や菌を防除する燻蒸は、収蔵庫建設で欠かせない行程だった。九博でも当然、燻蒸を計画していた。

 本田が反対した理由は、燻蒸剤にあった。主成分の臭化メチルは、オゾン層破壊物質として、平成9年のモントリオール議定書締約国会合で、原則として16年末に全廃することが決まっていた。

 九博の開館は17年秋の予定だった。

 「未来のために文化財を守るのが博物館だ。未来の環境を壊すかもしれない物質を使うのは、おかしい」

 そんな思いが拭えなかった。

 本田は文化財保存に精通した研究者として、九州では名の通った存在だった。

 東京での学生時代に、文化財の保存科学を学んだ。結婚を機に北九州市へ転居し、福岡県太宰府市にあった九州歴史資料館に勤めた。

 8年間の専業主婦を経て、文化財の世界に復帰。福岡市埋蔵文化財センターで保存修復に携わった。別府大(大分県)に新設された文化財学科の助教授として招聘(しょうへい)され、11年に教授に昇格した。

 そんな本田を、九博の初代館長となる三輪が、文化財の保存・修復を担う人材として引き入れた。

 「燻蒸はやりたくありません。徹底して清浄度を上げれば、リスクは減らせます」

 化学薬剤を使わなくても、木を高温乾燥すれば、虫や菌を消すことはできる。その状態を維持すれば、害虫やカビの発生は防げる。本田は訴えた。

 「よし、分かった」

 三輪も決断した。

 収蔵庫に使用する材木の選定が始まっていた。本田は、九州を中心とする製材所に足を運び、品質に目を光らせた。

 製品としての材木以上に、製材所の仕事ぶりをチェックした。

 たばこの吸い殻が落ちていた製材所からは、仕入れをやめた。有機溶剤の缶のふたが開けっ放しになっていた工場の材木も、使わなかった。

 その木が、どの山のどんな場所に生えていたのか、土質や肥料まで調べた。搬入時には、サンプルではなく、1枚1枚を検査した。

 収蔵庫の建設が始まると、清掃の徹底を作業員に訴えた。材木に、虫や菌が付着しない状況を目指した。見えない敵との戦いだった。

 工事は毎日、清掃に始まり、清掃に終わった。送風機や除湿機を設置し、室内の温湿度のデータを毎日取った。

 「論理的には絶対に大丈夫」。そう信じる本田だが、不安はつきなかった。眠りの浅い夜が続いた。

 16年3月、九博が完成し、収蔵庫内を改めて検査した。

 害虫やカビの発生は認められなかった。本田は胸をなで下ろした。

                 × × ×

 本田は、もう一つの「常識」にも挑戦した。

 収蔵庫の壁へのガラス窓の設置だった。

 九博の収蔵庫の壁は、二重構造になっている。内壁と外壁の間には厚さ約60センチの空気層があり、これが外部の温度や湿度変化の影響を軽減する。

 土蔵の断熱性や調湿作用を参考に、最先端の空調技術を組み込んだ。文化財を守る自慢の壁だった。

 「伝統と革新を組み合わせた収蔵庫の構造を、広く伝えたい。ガラス窓を付けましょう」

 三輪も賛同した。「まだ収蔵庫には見せるべきものがないんだ。収蔵庫の仕組みも見てもらおう」。自嘲気味に語ったが、半分は本心だった。

 だが、収蔵庫に「のぞき窓」を付けるのは、美術工芸品を収める博物館では前代未聞だった。

 なぜか-。

 美術工芸など「伝世品」と呼ばれる文化財は、長く倉の中に封印され、人の目にも触れないよう、大切に守られてきた。信仰の対象といっても良い。

 先人の苦心によって、物によっては1千年以上も守り伝えてきた。その文化財を、窓からのぞき見るような行為は、所有者にとって許せるものではなかった。

 ガラス窓構想は、博物館関係者から猛烈な反対を受けた。

 特に東京、奈良、京都の3つの国立博物館の反対は強かった。九博は、東京国立博物館からは展示品を借りることにもなっていた。

 三輪も本田も、反対が起きるのは百も承知だった。

 「保存に関する構造をちゃんと伝えることは、博物館の使命です。そのために窓が必要なんです」

 考古品を収める部屋に窓を取り付けることで、理解を得た。

 「九博は新しい時代の、新しい博物館であるべきだ」。本田の信念が結実した。

 収蔵庫のガラス窓は、常識という分厚い壁に、九博が空けた穴といえる。九博がバックヤードツアーを開催したときには、その穴の前に人が集まる。

                 × × ×

 平成29年9月、九博の文化財修復施設に2枚の天井画が搬入された。

 熊本藩主の細川家が、参勤交代に用いた船「波奈之丸(なみなしまる)」の屋形部分に描かれた天井画だった。屋形部分は、熊本城小天守に展示されていた。

 熊本城は28年4月、熊本地震で被災した。

 調査の結果、天井画に被害はなかった。しかし、前回の修復から約60年が経過し、劣化が進んでいた。

 所蔵者の公益財団法人永青文庫と、管理団体の熊本市は、小天守の修復に伴い、天井画も直すことにした。修復場所に選ばれたのが、九博だった。

 九博が完成するまで、九州の国宝や重要文化財は、主に京都国立博物館で修復されていた。

 運ぶ距離が長ければ、それだけ損傷の危険も高まる。運送費用も上がる。そのため、修復をためらう所有者もいた。結果、文化財の劣化が進んだ。

 九博の修復施設は絵画、古文書など分野ごとにあり、計6室を備える。4つの国立博物館の中でも最大規模だ。九州における文化財修復の拠点となった。

 熊本から九博に運び込まれた天井画は、2枚とも幅2・7メートル、長さ約3メートル。漆塗りの枠で囲われた合計171枚の板に、花や草木が描かれている。芸術性は高く、重要文化財に国が指定している。

 「思ったより、損傷がひどい」。文化財修復の技術者、竹内友希子(47)は、天井画を見て、思わず声に出した。

 竹内は一般社団法人国宝修理装●(そうこう)師連盟から、九博に出向していた。同連盟は、主に紙や絹の文化財を保存・修復する「装●」の専門家集団だ。

 竹内は20年のキャリアを持つ。それでも、天井画の修復は難航が予想された。

 普段扱う掛け軸や書は、紙や絹が大半だが、天井画は木に絵が描かれていた。素材が違えば、修復方法も変わってくる。

 竹内らは天井画の状態を、丹念に調べた。顔料が薄く塗られている個所もあれば、厚く塗られている個所もある。顔料の粒子もさまざまだった。

 171枚、一つとして同じ状態はなかった。顔料の種類や劣化の状態を見極め、それに合わせて膠(にかわ)を塗って、顔料を接着した。

 地道な作業だった。竹内を中心に技術者は一日中、下を向いて、絵とにらみ合った。

 約1年をかけ、修復を終えた。

 天井画は30年9月、熊本博物館に搬入された。同年12月1日、熊本博物館のリニューアルオープンに合わせて、一般公開された。

 装飾された金箔(きんぱく)と、鮮やかな草木がよみがえった。九博があったからこそ、九州の美がスムーズに復活した。

 平成に生まれた九博は、次の100年へ文化財を継承する確かな拠点として成長している。(敬称略)

  =おわり

                   ◇

 この連載は小沢慶太が担当しました。

●=さんずいに黄

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