【この本と出会った】『日の名残り』カズオ・イシグロ著、土屋政雄訳(1/2ページ) - 産経ニュース

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この本と出会った

『日の名残り』カズオ・イシグロ著、土屋政雄訳

【この本と出会った】『日の名残り』カズオ・イシグロ著、土屋政雄訳
【この本と出会った】『日の名残り』カズオ・イシグロ著、土屋政雄訳
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 □大日本茶道学会会長・田中仙堂

 ■自分の過去に向き合う勧め

 本書を読んだのは、平成9(1997)年にイギリスが租借していた香港を中国に返還してからまだ間もない頃だった。その頃私は、茶室と教場の建て替えに取りかかっていた。東京・外苑東通りに面した新たなビルの中に、古いものをどこまで取り込み残すか、古い教場での良き遺産をどのように継承するかで悩んでいた。

 イギリス貴族の邸宅が、第二次世界大戦後にアメリカ人富豪の手に引き渡され、新たな主人につかえることになった執事スティーブンスの独白で、戦前の邸宅の華やかさが回顧される小説『日の名残(なご)り』は、大英帝国の衰退を時代背景に、雇い主と同僚との関係が物語られる。

 雇い主たるダーリントン卿は、敵と正々堂々と戦った後は、倒した相手が立ちあがれるように手を差し伸べねばならないと考えて、ドイツの復興を手助けしようと影響力を行使する。卿の計画がうまくいったら、ナチス礼賛者のイギリス国王のナチス・ドイツ訪問が実現していたかもしれないという暴露には、驚かされた。

 同僚である女中頭のミス・ケントンは、スティーブンスに密(ひそ)かに恋心を寄せるも、気が付くそぶりをみせない対応への腹いせに、ミセス・ベンとなって、ダーリントン・ホールを去っていった。

 回想は、戦後、再び彼女に女中頭として復帰してもらえないかと期待しつつ彼女のもとへと旅する間に行われる。この構成は、スティーブンスが彼女の恋心に答えていたらという問いかけと同時に、もしも、イギリスが対独宥和(ゆうわ)政策を貫いていたら、という問いかけを読者がするように作られていると感じられた。

 小説は、スティーブンスが、ジョークが人々を結びつける効果を持つことを発見し、練習を決意する場面で結ばれる。これをイギリス人がアメリカ人の気に入るように努力している姿と皮肉に解釈することもできよう。

 しかし、ジョークとは、お互いが、これは仮定の話であると互いに認め合って、相手の言ったことを共に笑いあう技術であると考えれば、著者は、歴史上のもしもを仮定の話として、隣国とも率直に交わせるようになることが理想だと主張しているようにも読める。

 この解釈の正否は別におくとしても、過去と率直に向き合うことを、促していることは、スティーブンスが、ダーリントン卿に仕えていたことを素直に認められるようになった結果、安らぎを得たことからも確実であろう。