平成の文化施設はこうして生まれた

九州国立博物館(3)電光石火、財団設立

佐々木正峰文化庁長官(左)に建設用地の寄付書を手渡す吉田清治氏(左から2人目)ら=平成13年11月14日
佐々木正峰文化庁長官(左)に建設用地の寄付書を手渡す吉田清治氏(左から2人目)ら=平成13年11月14日

 ■「小さな巨人」、資金集めに奮闘

 文化庁は平成4年8月、次年度予算案の概算要求で初めて、国立博物館の九州設置を前提とした研究費を盛り込んだ。

 年末までの折衝で、政府予算案に盛り込まれれば、九州国立博物館(九博)の構想は大きく前進する。だが1~2カ月後、思いがけない問題が浮上した。

 「福岡県が用意した土地に、国の施設を建てるのは法律違反になります」。自治省からの指摘だった。

 福岡県は九博の建設用地として、太宰府市内に17万平方メートルの土地を用意していた。

 そのほとんどは、太宰府天満宮の鎮守の森だった。昭和46年、第38代宮司、西高辻信貞(故人)が「この地に国博が来れば、太宰府天満宮は100年安泰だ」として、14万平方メートルを県に譲った。

 「土地はすでに用意しています。国の負担はありません」

 これが九博を誘致する上での国への殺し文句であったが、地方財政再建促進特別措置法にひっかかった。

 昭和30年に施行された同法は、地方公共団体から、国への寄付行為を禁じていた。終戦から10年、当時の地方財政は逼迫(ひっぱく)していた。本来、国が負担すべき費用を、地方に転嫁させることを防ぐためだった。

 博物館用地として、県有地を国に寄付できない。文化庁も福岡県も気づいていない盲点だった。

 誘致運動を進めていた「博物館等建設推進九州会議」(九州会議)の事務局長、石崎憲司(85)は色を失った。

 「盛り上がったムードが、しぼんでしまう」

 石崎は自治体や経済界の幹部と協議を重ねたが、妙案は浮かばなかった。

 石崎は東京へ飛んだ。永田町や霞が関の知恵を借りるためだった。

 石崎は西日本新聞社の編集局長だった。かつての東京支社時代を通じて、政界や官界にも知り合いができた。

 その一人が自民党衆院議員で防衛庁長官の宮下創平(1927~2013)だった。大蔵省出身の宮下は、党内きっての政策通だった。首相も務めた福田赳夫(1905~95)の知恵袋でもあった。

 旧長野3区選出と、九州とは縁のない人物だが、石崎は窮状を訴えた。

 「ここでストップしたら、何もかもおじゃんになります。何か便法(べんぽう)はないでしょうか」

 宮下はすぐさま、大蔵省に電話を入れた。大蔵側も自治省と同じ、法律違反という見解だった。

 宮下は、受話器を置くと、石崎に策を授けた。

 「財団組織をつくれ」

 財団を新たにつくり、そこが県有地を一旦購入した上で、国に寄付する。

 「これしかない」。明るさを取り戻した石崎は、福岡へ戻り、関係者に話を報告した。県と経済界はすぐに財団設立に動いた。

 平成4年11月25日に財団の設立準備委員会を設けると、12月3日には設立総会にこぎ着けた。翌4日に福岡県教育委員会に設立申請、15日に認可が下りた。

 「九州国立博物館設置促進財団」(現九州国立博物館振興財団)が誕生した。まさに電光石火だった。

 財団の初代理事長には、九州電力会長で九州・山口経済連合会会長の川合辰雄が就いた。理事には西日本鉄道、西部ガスなど地元の有力企業のトップが名を連ねた。

 建設用地の問題はクリアできることになり、平成5年度の予算に「九博」構想は盛り込まれた。財団の次の使命は、建設・運営のバックアップ、端的に言えば資金集めだった。

                × × × 

 九州国立博物館は、国の施設とはいえ、地元負担が暗黙の了解となっていた。

 明治時代にできた東京、奈良、京都の3国立博物館は、日本国家の威信を懸けた博物館であり、建設・運営とも国費でまかなった。

 だが、時代は変わった。昭和50年以降、国家財政の健全化が、大きな政策課題となった。

 特に平成3年にバブルが崩壊し、経済が悪化すると、博物館など「ハコモノ」への見方は、一気に厳しくなった。

 九博の建設費は250億円と想定された。文化庁と福岡県、財団は10年8月25日、建設費を国が5、県が4、財団が1の割合で負担することで、合意した。

 財団はすでに19億円を集めていた。3者合意を受け、財団は翌11年3月、建設資金として3年間でさらに25億円を集める目標を定めた。

 陣頭指揮を執ったのは、九電副社長(後に顧問)の吉田清治(1932~2006)だった。

 吉田はそれまで、周囲からの頼まれごとには、全力で対応してきた。仕事にはとてつもなく厳しいが、芯に優しさがあった。九州はもちろん東京の企業、そして政界に、太い人脈を築いた。

 「九州だけじゃ足らん。九州で営業している東京の企業をターゲットにする」

 財団の募金活動推進本部長の吉田から、同じく九電から財団に出向していた事務局次長の前田利輔(80)らに指示が飛んだ。

 前田ら実動部隊は、募金の作戦を練った。まず、九州に支社・支店を置く1千社をリストアップした。続いて九電をはじめ、地場企業との取引状況などから、AとBの2グループに分け、募金に応じてくれそうなAグループ500社を集中して回ることにした。

 後に「失われた20年」と呼ばれる時代だ。大手・中小に関わらず、企業にはリストラの嵐が吹き荒れていた。「社員に給料も払えない状況だ。そういうことが分かっていて、寄付を頼むのか」。そう怒鳴られた財団職員もいた。

 ある大手企業の専務は「九州国立博物館でしょう。九州の方々でやられたらどうですか」と断った。

 報告を受けた吉田は、「なに! 俺が行く」と東京に飛んだ。

 「九電の吉田が来る」。その企業は専務以下がずらりと並び、吉田を待った。

 専務は開口一番、「おいくらでしょうか」と尋ねた。吉田が来た以上、「ノー」の返事は、あり得なかった。

 身長160センチに満たない吉田だが、ひときわ大きく見える。まさに「小さな巨人」だった。専務は吉田のいないところで、「あの人は、日本一の集金マシンだから」とつぶやいた。

 九博実現へ、吉田は東奔西走した。交渉相手が、金を出せない理由を話し始めると、途中で遮り、「まぁまぁまぁ、そうおっしゃらずに。せっかく来たんですから」と、九博の理念を語り出す。

 「九州の文化の核をつくりたいんです」。相手が聞こうと聞くまいと、どんどん説明を続け、自分のペースに持って行った。

 「電力事業と無関係の九博に、なぜそこまで熱心になるんだ」。吉田の行動に疑問を持った九電関係者もいた。

 吉田が、その答えを口にすることはなかった。ただ、「九博ができて、そこに大勢の人が来るようになれば、九州は活性化する。回り回って九電のためにもなるんだ」。そう思っていたのは、間違いない。

                 × × × 

 吉田や前田は奮闘した。それでも、氷河期のような経済情勢下で、3年間で25億円は困難だった。

 平成14年7月に九電から財団に出向した企画課長、深水龍一(59)=現事務局長=は、募金の最終段階を担った。

 寄付の返事がなかったり、断られたりした企業に、最後の念押しをする。厳しい仕事だった。

 「結論を出してくれませんか」「いくら出してもらえますか」

 福岡県知事の麻生渡や、吉田から募金活動推進本部長を引き継いだ九電常務の橋田紘一が、同行することもあった。

 財団の建設募金は16年3月の九博の建物完成をもって終了した。1千を超える全国の企業・団体から19億円を集めた。

 そこに財団設立当初から集めてきた資金を加え、国や県との合意通り、25億円を拠出した。

 財団はその後も、募金活動を続けた。九博の運営費に充てるためだった。

 「福岡市内から遠い。交通の便も悪い。あんな場所に造ってどうするんだ」「人が来ないんじゃないの」

 深水は募金活動で、こうした声を何度も聞いた。

 「開館しても本当に人が来るのだろうか」

 不安が大きくなった。

 17年10月16日、九博開館を飾る特別展「美の国 日本」が始まった。午前9時半の開館時に、約1千人が行列をつくっていた。

 「九博は市民が待ちわびていた博物館なんだ」。深水は、胸が熱くなった。

 財団は最終的に、建設・運営費として計41億5879円を集め、その役割をしっかりと果たした。 (敬称略)

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