平成の文化施設はこうして生まれた

九州国立博物館(2)25年間発信続けた機関誌

25年間発行を続けた「ミュージアム九州」
25年間発行を続けた「ミュージアム九州」

 ■「アジアとの交流」理念を形作る

 「自分たちの世代では無理だろう。それでも、この雑誌は将来につながる」

 昭和58年、九州歴史資料館(九歴)職員の高倉洋彰(75)=西南学院大名誉教授=は、ある雑誌の編集に加わった。

 「ミュージアム九州」。国立博物館を福岡県太宰府市に誘致しようと、55年に発足した「博物館等建設推進九州会議」(九州会議)の機関誌だった。

 だが、高倉が「今は無理でも次の世代に」と考えるほど、誘致の見通しは立っていなかった。

 昭和40年代、日本に博物館ブームが起きた。2度の石油危機で高度成長が幕を閉じ、日本は安定成長の時代に入っていた。

 人々は、戦後復興を成し遂げた「がむしゃら」な経済成長から、文化も含めた豊かな生活を求めるようになった。国内の博物館数は、43年度の338カ所から、50年度は409カ所に増えた。

 国立博物館の誘致でも、全国の自治体が手を挙げた。「国立産業技術史博物館」構想を掲げる大阪など、ライバルは多かった。

 九州会議が差別化の一手として創刊したのが、ミュージアム九州だった。56年1月の第1号から、年4回のペースで発行された。

 考古学が専門の高倉は、九歴の同僚で、後に編集委員長を務める亀井明徳(故人)に「編集態勢をしっかりさせたい。手伝ってくれないか」と協力を求められた。

 編集委員には、考古学者に加え歴史や民俗、地質や建築、果ては昆虫学まで幅広い専門家が集まった。

 編集会議は、毎月第1火曜日の夕方、福岡市中央区の西日本新聞会館11階の会議室で開かれた。毎回10人前後が集まり、特集テーマや、誰に原稿を依頼するかなどを決めた。

 議論は活発だった。学者同士、異分野の話に刺激を受け、新たな展望を開いた。ミュージアムの語源である古代ギリシャの学術施設「ムセイオン」を彷彿とさせる、といえば大げさだろうか。

 「薬のきた道」「気候の歴史」「漆の文化」

 固定観念にとらわれない特集が、次々と組まれていった。

 高倉ら編集委員に60年、悲報が届いた。大宰府政庁跡の発掘の指揮を執り、誘致活動の柱でもあった藤井功が、53歳の若さで亡くなった。誘致に関わるメンバーはみな、うちひしがれた。

 それでも高倉は奮起した。

 「九州ミュージアムは 1冊80ページほど。何十冊と発行すれば、積み重なった厚みで、誘致運動が続いていると、視覚に訴えることができる。藤井さんのためにも、発行を続けるんだ」

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 高倉は平成3年、編集委員長になった。2年前に文化庁が初めて、国立博物館に関する研究費を、当初予算に計上した。

 立地場所が九州と決まったわけではなかった。

 東京の著名な学者から「九州のエゴイズムで造るのではない、というイメージができないと、通らないよ」とクギを刺された。

 国に訴えるには、イメージ戦略も重要だ。

 「九州にあっても、九州のことを紹介する博物館ではないことを強調しよう」。高倉は、雑誌・ミュージアム九州からも「九州色」をなるべく消すよう腐心した。

 「東シナ海をめぐる自然」「アジアの民衆芸能」「アジアの文書館」

 アジア史における「クロスロードとしての九州」。そう強く意識した特集を組んだ。

 このミュージアム九州の編集方針は、後にできる九州国立博物館(九博)の理念を形作った。

 福岡県が主導して設立した九州国立博物館誘致推進本部は3年、地元として「国立アジア文明博物館(仮称)基本構想」を策定した。構想の原案作りを裏方で担ったのは、ミュージアム九州の編集委員だった。

                 × × ×

 平成5年、九州を念頭に国立博物館の研究費が、国の予算に計上された。翌6年6月、文化庁は「新構想博物館の整備に関する調査研究委員会」を設置し、国立博物館建設へ具体的な検討を始めた。

 「あと一押しだ」。九州の関係者は活気づいた。

 文化庁側から、思わぬ申し入れがあった。新構想博物館の調査研究委員会の座長、上山(うえやま)春平(故人)との面談を打診されたのだ。

 上山は哲学者であり、昭和60~平成3年に京都国立博物館の館長も務めた。同委員会のトップとして、議論をリードする立場だった。上山が「うん」と言えば、九州への国博誘致は、ほぼ確定する。

 仲介したのは当時、文化庁美術工芸課長の三輪嘉六(かろく)(80)=後の初代九博館長=だった。三輪は、急逝した藤井と親しく、九州の誘致に懸ける熱意を、しっかり受け止めていた。

 7年1月12日、高倉のほか、副編集委員長を務めていた九大教授の佐伯弘次(63)ら5人が、上山と面談した。場所は、上山が学長を務める京都市立芸術大だった。

 何を訴えるか。高倉らは事前に検討を重ねていた。「新しい博物館では石器時代から近代まで、日本とアジアの関係を5段階に分けて展示したい」。熱く語った。

 説明を聞き終わった後、上山は静かに異論を述べた。

 「アジアでは広すぎませんか。トルコなど中近東も入ります。まず、東アジアを範囲にして、だんだんと広げていくのはどうでしょうか」

 国立博物館は明治時代に東京、奈良、京都にできた。いずれも100年前後の歴史を誇り、所蔵品には国宝や重要文化財がずらりと並ぶ。それに比べ、九州はゼロからのスタートだ。

 上山の言葉には「そんな気負わずに始めたら」というニュアンスもあった。

 高倉らは、引き下がらなかった。

 「九州で盛んな陶磁器をみても、東南アジアと関わっています。仏教もインドです。少なくとも東南アジアやインドが入らないと、だめなんです」

 しばらく、やりとりを続けた。上山は最後にこう答えた。「では、そうしましょう。これで行けそうだね」

 アジアとの交流に主眼を置いた国立博物館を、九州に設置する-。内々に決定した瞬間だった。

 面談の5日後、阪神淡路大震災が発生した。

 文化庁も含め、すべての政府機関は、大災害への対応に追われた。

 その被害の大きさを見ながら、高倉たちは「予定があと1週間遅かったら、上山先生とは会えなかった」と思った。

 上山が座長を務める委員会は8年3月、中間報告を文化庁に答申した。

 「日本文化の形成をアジア史的観点から捉えるという新しい視点を持った博物館を設置することが、時代の要請に応えることになる」

 文化庁は新構想博物館の設置候補地を福岡県太宰府市とすることを決定した。

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 平成15年、佐伯がミュージアム九州の編集委員長となった。九博の建設はすでに始まっていた。

 「数多くの苦労を記録として残すべきだ」。佐伯は、長い誘致活動をミュージアム九州の中でとどめておく作業に注力した。

 藤井や高倉ら学者をはじめ、政財界で誘致に関わった人の努力が書き込まれた。最終巻の81号は、九博開館後の18年6月に発行された。1~80号までの目次と原稿執筆者の一覧を掲載した。

 「みんな手弁当でやって、20年以上も続いた雑誌なんてそうはない。ミュージアム九州は、これから造る博物館の姿を示し続けた」

 平成31年が明けた九博で、特集展示「玉(たま)-古代を彩る至宝」が始まった。

 緑色のヒスイや、だいだい色のメノウ、青く透明なガラス。装飾品や祭具に用いられた勾玉(まがたま)など8146点が古代の輝きを放つ。

 古墳時代の玉には、シルクロードを介して西アジアから運ばれものもある。九博の理念を具現化する展示だ。

 高倉は言う。「アジアとの文化交流史。これが九博の柱の一つなんです」(敬称略)

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