話の肖像画

元最高裁判事・園部逸夫(89)(7)学者から裁判官は珍しい

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旧制の四高(しこう)(金沢)を卒業して、昭和26年に京都大法学部へ入ります。旧制から新制への過渡期でした。入ったのは新制の京大ですが、旧制高校出身者なので、教養課程は免除され、3年間で専門課程のみを学ぶという「臨編」の扱いとなりました。

同時期、同じ学校に「旧制」「新制」が併存していたことになるのですが、講義が別になっているわけではありません。通常2年間の専門課程を私は3年かけてやるので余裕がありましたね。そのころ、父(敏(さとし)さん)が、京都の立命館大学へ移っていましたので、(立命館)大学が下鴨に用意してくれた家で父と一緒に住み、そこから京大へ通いました。

〈大学卒業後もそのまま残り、29年、法学部助手から、31年に助教授へ。専門は父と同じく行政法を選ぶ。米留学を経て、42年、法学博士(京大)となった〉

法学部に須貝脩一という行政法の先生がいて、この方はすごく頭のいい天才で、たまたま私の答案に注目してくださり、「これは誰が書いたんだ?」ということになったのです。須貝先生から、助手になって大学へ残らないか、と誘われていや応もなく…まぁ会社勤めはあまり好きじゃなかったのでね(苦笑)。

そのころの京大法学部は、少し複雑な問題を抱えていました。戦前の滝川事件(京大事件、国が危険思想として滝川幸辰(ゆきとき)教授を休職処分にし、総長も辞職した)で大学を追われた滝川先生が戦後、復帰し、京大総長になっていました。その結果、滝川先生のグループと、滝川事件で京大に残った方との間で感情的な対立が生まれたのです。私はそんな内部事情はよく知らなかったのですが、「滝川派」とみられていたので、もう一方から向けられる空気がおかしい。何となく居づらい雰囲気になったのです。

同じころ、学生運動による大学紛争が激しくなっていました。過激派の学生が教室を占領して立てこもり、火炎瓶や石が飛び交う。物理的にも、精神的にも荒廃しきって、もはや、まともに学問を行えるような状況ではなくなっていました。私は「もう大学にいてもしようがない」と思うようになっていったのです。

〈京大を辞めることを決意し、知己の最高裁判事の紹介で裁判官への転身を図る。45年、東京地裁民事2部の判事に。法律学の教授・助教授として一定期間の経験があれば、司法試験・司法修習を経ずに任官できる制度はあるものの、実際にこのコースで裁判官に任命された例はあまりない〉

裁判の実務経験がまったくないのに、いきなりですから、まぁ大変でしたね。でも、(東京地裁の)裁判長が心の広い、とてもいい方で、よく面倒をみてくださった。

学者から裁判官になるのには、よほどの覚悟が必要だと思います。いつも威張っているくせに、いざ裁判の実務になると「何も知らないじゃないか」と言われたらもうダメですから。私にとっては、大学の研究室に籠もっているだけではない、とても貴重な経験となりました。(聞き手 喜多由浩)

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