昭和天皇の87年

統帥権干犯問題をあおる野党 党利党略が国家を危うくした

 一方、浜口内閣の外交上の重要課題は、ロンドン海軍軍縮会議だ。

 それより前、1921(大正10)年11月から翌年2月にかけ、米ワシントンで初の軍縮会議が開かれたが、アメリカ主導で決められた国際新秩序は、日本にとって喜ばしいものではなかった。

 この会議で、日本の安全保障政策の基軸だった日英同盟が解消され、日本が対米70%を主張した戦艦など主力艦の保有比率も60%しか認められなかった。以後、日本は巡洋艦や潜水艦など補助艦の新造を進め、かえって建艦競争が激化する。

 そこで行われたのが、補助艦保有を抑制する1930(昭和5)年のロンドン海軍軍縮会議である。昭和天皇は、この会議が平和につながると期待した。

 同年3月27日、昭和天皇は《御学問所において内閣総理大臣浜口雄幸に謁を賜い、ロンドン海軍軍縮会議の経過大要及び本問題解決に関する所信について奏上をお聞きになる。それより浜口に対し、世界の平和のため早くまとめるよう努力せよとの御言葉を賜う》(17巻40頁)

 だが、交渉は難航した。日本側が対米70%の補助艦保有比率を求めたのに対し、米側は62%を提案、双方の隔たりはあまりに大きかった。結局、69・75%で妥協点に達したが、主力となる重巡洋艦が約6割に抑えられたため、海軍軍令部は「7割でなければ国防上責任が持てない」と猛反発。政府の決定が上奏される前に軍令部長が反対意見を上奏しようとしたのを、侍従長が2日遅らせる騒動まで起きた(※2)。

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